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将棋 2 技芸と人間 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

  この将棋盤は、Sさんから贈られた。「息子さんと使ってください。私は使いませんから」と、Sさんは言った。届いた盤は、丁寧に梱包されていた。それを見て私が想像したことを、書いてみます。

 Sさんはある時期、相当に将棋をやっていたと思います。競い合う相手もあったと思います。
しかし察するところ、何かのご事情でその相手を失ったのだろう。そしてSさんは気づいた。「自分は何となく将棋を楽しんでいた。しかしその大半は、将棋の技巧よりも、相手の考えたり困った顔の反応、やりとりを楽しんでいたのだ。将棋相手を失って、初めてそのことに気づいた。だからもう、将棋をやる理由を失った」。そんなことではないだろうか。

  さらに翻って、自分の日常を考えてみる。合気道を楽しむと言った場合、その技芸を深めること。その思想や表現を楽しむこと。いろいろだろう。我々楽心館のあり方としては、合気の技法を深めることに傾斜している。技芸は大きな目的であるが、それが唯一の目的にはなりえない。なぜなら技芸のこちらに自分がいて、技芸のあちらに相手がある。これは現在のこと。
 技芸を伝えてくださる方々があって、技芸を伝えてゆく人々がある。これは過去未来のこと。こうして技芸は、過去現在未来にわたって、人と人を繋いでいる。

 自己形成と社会形成があって、人間形成。これは明解な定義。将棋の技巧だけを深めるのであれば、パソコンでソフトウェアを相手にしていればいい。しかし人間は、生身の人間に誉められ癒されてはじめて、相互作用の中で幸福を感じるものだと思う。

  技芸自体の深さの楽しみがある。技芸によって繋がる人の和の楽しみもある。自己形成と社会形成の両輪が大切。しかしよいことばかりでもないのが人間で複雑。

  以前に引用した道元禅師の道歌(以前はここhttp://blog.so-net.ne.jp/ichirakusai/2008-01-02
「劫初より 作り営む 殿堂に 我も黄金(ふがね)の 釘一つ打つ」

  禅の門外漢だが、技芸の立場から自分なりの解釈をしてみます。
「劫初より 作り営む」とは、祖師方によって伝えられてきた仏祖の慧妙。これは過去のこと。

「殿堂に」とは、現在(道元の時代)の仏教や教団。

「我も黄金の 釘一つ打つ」とは、自分も未来へ伝える役割を果たしたい。しかしそれは小さくとも、永遠に残る黄金である。という。凄まじい気概と迫力が感じられる。

 さて私は技芸の過去現在未来の中で、どうしよう。

「我も鋼(はがね)の 釘一つ打つ」。

  そう言える身にもなりたいものだ。末筆ながら将棋をはじめとして技芸と人間について考えさせてくれたSさんに、御礼を申し上げます。Sさん稽古日誌はここ。http://www.aiki.jp/tokyo/nakano/keiko.html

合気道楽心館 http://www.aiki.jp/
動画ブログ:剣柔一体 http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3
メールアドレス:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp


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