武道と教育 [武道館:東京都足立区綾瀬:東京武道館合気道]
6月6日(金)足立子供クラスの指導中、知らない青年が入ってきて、観覧席から見ている。
誰だろう?何処かで見たような顔の、気がしないではなかった。
休憩時間に挨拶に来た。「私はここで合気道を学んでいた者です」と言う。
私:「あれっ!名前は?」。
彼:「Oです」。
私:「えっ!どんな字だっけ?Pちゃんか?君は3歳から12歳(6年生)まで、稽古していたね。君は私の顔や手を、爪でたくさん引かいたものだったんだよ」。
彼:「はい、よく母に聞かされました。今、22歳で10年ぶりです」。
私:「お母さんやおじいさんは、お元気ですか?確かお姉さんがいらしたね」。
次々と当時の様子が、思い出されてくる。
よくO君の顔を見ると、目は変わらないな。しかし別人のように、立派な青年になって、驚いたな。
私:「それにしても、どうしたのだい?稽古が終わったら、また話そう」。
彼はまた、観覧席へ上がっていった。以下は彼が稽古を終わるまで見た後の話である。
「私は政治学を学んで、来年、海外の大学院に進学する予定です。ここの稽古で学んだことがいかに大切なことだったか、20歳の頃から考えるようになりました。それ以来ずっと、お礼を言いたいと思っていました。母に言われて来たのではありません。
たとえば先ほど、ありがとうございます、と稽古の時に指導されていました。これが本当に大切なのです。私は技のことは何も覚えていませんが、こうしたことがいかにも大切なのです」。
驚くではないか、これがあのPちゃんかよ!「マミー?どこ行ったの?マミー!」とワンワン泣いていた、あの子なのだ!
武道において護身術であることは表層的なこと、されど護身術。
Pちゃんの言っていることは武道の稽古の一面に過ぎないけれども、子供クラスの卒業生としては充分な答え。嬉しいじゃないか!合気道楽心館も長く続けていればこそ、こんな日も来るのだ。それにしても彼は、何故、ああしたことをわざわざ伝えに来たのだろう。「武と教育」について考る、好機でもある。
「武」の言葉の理解は、ここhttp://www.aiki.jp/honbu/egakusyu/news/jyutudo3.htmlに詳しい。止を原初的に理解するか、発展的に理解するかで、戈の使い方も変わってくる。どちら派か、ということではなく、今の時代は両方あって、一つであると思う。
「教育」の言葉の理解は、educateが「引き出す」意味であること、そのままだと思う。学校教育であろうが武の稽古の場であろうが、能力を引き出すことにおいて差は無い。あるのは武の稽古の場が、リスク(危難)の場に子供を放り込んで、心身を錬らせることにあると思う。しかも、心清く真剣に美しく。これを禅的に表現すれば、「刻苦すれば光明必ず盛大なり」だ。
O君の中で、楽心館での「武」と「合氣」が、どのように醸成されたのだろう。彼は政治を学んでいると言っていた。「政治家になるとは思いませんが、何かに活かせればよいと思います」とのことだった。場・人・心を治める、そのことに稽古の場に身をおいたことが、参考になったのだろうか?稽古が無駄を省く、余計を消す作業によって、素になった本質を学ぶ作業であること。事を錬るは、事を省くの簡なるに如かず。そのことを「政治も斯く有りなん」と、考えたのだろうか?だとすると「荘子の包丁解牛」に通じた深い見方になる。
畏るべしO君!どうぞご活躍ください!
合気道楽心館:http://aiki.jp/
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