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12月8日 開戦記念日に 映画「凛として愛」と感想。 [正しい歴史認識:国防 自衛 護国]

凛として愛

 

この映画について、ある愛国者から寄せられた感想文を、ご承諾の上掲載させていただきます。

 

私は時折、靖国にお参りすることがある。至って無宗教であるにも拘わらず、お札をお受けして、神棚にお祭りしてもある。
なにゆえかと言えば、北滄南溟で、酷熱の南方で、乾ききった大陸で、凍り付いた満州で陣没された方々があって、今の私がこのようにいられることを知っているからだ。 
そんな私がこのたびゆえあって、「凛として愛」をようつべで全編見た。諸事情により劇場公開できなかったようだから、作成側の意志で無償公開されているとのこと。http://www.youtube.com/watch?v=Hpz5rFqI7jA 
見終わった私はこの映画を、片手落ちであると評価する。
ゆえに、続編を強く希望する。 ここで片手落ちと言うのは、内容に著しい偏りがあるとか、事実の曲解・捏造があるということではない。無論、ある立場から描かれたのだから、事実を都合良く解釈したり、取り違えているところはある。しかしそれは事の本質を、大きく損なうものではないと判断する。 
とりわけ、日華事変の背景に、中国人によるテロの横行、および、当時の中国政府が条約を遵守しなかった事実を描いたことには意義があり、戦端が蒋介石の謀略と第一撃によって始まった事実を知らしめようとしていることは、高く評価できる。 
また戦争に際して、末端を担う大多数の日本人の徳と能力が、決して諸敵国に劣っていなかった事実は、日本人を自負するものが、知っていなければならないことだろう。 
しかしだからこそ、なにゆえ、負けてしまったのかを考えねばならない。あまたの立派な方々が、なぜ命を落とさねばならなかったのか、罪のない多くの人が、なぜ無残に殺されねばならなかったのか、そこに思いを致さねばならない。 
それを思えば、ただこの映画を見ただけでは、その答えは描かれていないと判断すべきだろう。むしろ諸敵国憎しという、日本に住む者にとって無意味どころか有害な感情を、植え付けかねない危険があるだろう。それゆえ、私は片手落ちというのである。 
映画の中で引用されていた、高村の詩のように、かつて日本人はこづき回されていた。そして今なお、こづき回されている。世界のためにあまたの貢献を為し、今も為しているにも拘わらず、正当には評価されない。汗を流して働き得た財を、好きなようにアメリカに吸い取られてもいる。加えて国内の枢要な位置には必ずアメリカのチェックが入り、属国状態にあることまさに満州国の如しだ。 
これはひとえに、あの戦争に負けてしまったからだ。今社会の中で、それはおかしいだろ、と思う事の背景を追っていくと、そのほとんどには、あの敗戦がある。アメリカの属国になってしまったという現実がある。 
もし日本人の自負を持つ者が、この隷属から抜け出ようとするなら、懸命になるだけでなく、賢明にならなければならない。圧迫に対して正面から反発するのは、賢明な者のすることではない。なにしろ相手は、瞬時に日本に住む生き物全てを根こそぎにする手段を持っているのだ。先の戦争でアメリカが為したことを思えば、割に合うと算盤をはじいた時、彼らがそれをためらうとは思えない。 
加えて日本の敗戦以来、ありとあらゆるからくりで、日本の自由な行動を阻止すべく、アメリカが手足を絡め取ってきた事実もある。これは戦前の状況に実に似ている。 
ポーツマス、ベルサイユ、その後の諸条約、いずれも当然の権利を踏みにじられ、足蹴にされたことに、日本人の絶望と怒りは高まった。その行き着く先が真珠湾だったが、その轍を、また踏もうというのか? 私は絶対に、それに与したくはない。 
楠公のように、勝てないとわかりながら義によって起つばかりが、日本の良き伝統ではない。家康の雌伏、秀吉の謀略、信長の狡知もまた、日本の欠くべからざる伝統であり、宇喜多直家や天海の悪だくみさえ、日本人の貴重な遺産である。「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」(『朝倉宗滴話記』)と言ったのは、映画で取り上げられていた東郷外相ばかりではない。 
日本が隷属から脱するには、多大の時間がかかるだろう。多くの忍耐が必要だろう。しかし必ず手はあるはずだ。明治の指導者が、勝ちがたい清国・ロシア帝国を調べに調べ、どう打ち破るか考えに考え、国民と共に多大な代償を払って準備し、そして勝利を勝ち取ったように。対して憤ったから無分別な行動に出るというのは、敗戦の際、先帝さまが固く戒められたことではないか(若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム)。 
大正から昭和前半の日本人には、それが出来なかった。無能な指導者と、無責任な役人どもと、それに悪のりした多くの国民の集まりになってしまった。名君、賢臣、勇将、順民が共にそろわねばうまくいかないという、大日本帝国憲法下の日本の弱点を、敵と悪しき者どもに、まんまと突かれてしまった。 
確かに、戦場で勇敢に戦った方々、英霊となられた方々はおられた。しかし戦前の日本社会が、今日同様いやそれ以上に、理不尽や破廉恥行為や不気味な犯罪に満ちていたことは、丁寧に戦前の史料と研究を読めばわかることである。仮にその暇が無くても、エログロナンセンスという言葉が、大正デモクラシーの中から生まれたことを思えば、少しは想像できるかも知れない。 
そのような社会に陥らないようにするにはどうしたらいいか? 愚かな指導者を据えないためにはどうしたらいいか? 若い者にはむやみに死ね死ねといいながら自分はのうのうと生き残る、あるいは罪無き国民の命を博奕にかけて毫も恥じないような、文武の役人どもを排除するにはどうしたらいいか? 勝ちがたい敵を打ち破る、実践的で合理的な方法とは何か?
…それについて考えられた続編を、私は強く望みたい。 

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