習う 学びのプロセス 克己とは [素心]
ならいとは
一よりはじめて
十を知り
十より戻りて
もとのその一
どういうことだろう?もとのその一とは。
初歩の一手、基本があるとする。
その基本の変化で、様々の技法が生まれることを習う。
そして技法と身体使いの無駄をそぎ落として、元の一手に戻る。
だから「もとのその一」とは、別次元・別の場所なのであって、「もとのその位置」ではない、らしい。
だから
うたた登れば、うたた高し
見える景色も感慨も、違うものなのだろう。
しかし大切なのは、ここ。
相手に合わせて、何処へでも降りられる、ということ。
その自由さがなければ、なんぼのことか。
難しい話は横に置いておいて、最近発見した話です。
成田女性クラスに、60歳近いご婦人が、参加されています。この方がある日、しきりに、
「うれしい。これが出来たから、うれしいの!」
と、繰り返し仰せになりました。
それはなんだと、思いますか?
木刀を帯刀姿勢で礼をする。
剣を正眼に構える。
納刀動作で剣を帯刀する、礼をする。一連の礼法動作。
そのことです。
礼義がどうのこうのという、高尚な話ではありません。ただその木刀を扱う動作さえ分からなかった。それがやっと自分の自由に、動けるようになった。それが嬉しいと言うのです。
もう40歳代の私だったら、このような場面を顧みなかったかもしれない。稽古は技量を高める場であり、御稽古人様にもそれを求め、専心していた。
でもね
孔子の「吾、15にして学に志し、30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る。60にして耳順(耳にしたがう)、70にして心の欲するところに従って矩(のり)をこえず」
技芸の学びのプロセス、命の学びプロセス両輪で流れてゆく。
それは理想。
哀しいかな、技芸の学びより、命の時の方が早く転げて行く。 50を過ぎれば先が見え、折れることも降りることも、自由になるから不思議だ。
どんなことでも良い。
出来なかったことが、出来るようになる。
これこそ克己。
才能の伸長、自己の再発見、感動があります。
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