稽古とは、表は誤魔化せても、裏は誤魔化せない [古武道:無限神刀流居合術・会津小野派一刀流剣術]
今日は千葉市武道館での稽古、ある棟梁の言葉を思い出した。それは、
「 人目につく表は誤魔化せても、裏は誤魔化せない。良い仕事は、裏も良くできているものだ」。
武道の稽古でいう表と裏は、この場合、何に当てはまるのだろう?そう、考えていました。
大きな視点で見た場合
稽古場を表とするならば、日常の生活なり生き方が裏となります。これは稽古の格言でいう、「稽古は終わってからが始まり」にも通じましょう。
Hさんは私より年上。他流の経験があり、鞘の扱いに癖がありました。横納刀を縦納刀へ修正するため、私は繰り返し
「それは鞘を引いているため、『会津藩流真剣術・無限神刀流居合術で大切にする、刃を立てて刀と鞘を、一直線にする』方向が合っていませんよ。鞘は引くのではなく、落とすのです」
と、注意させせていただくことが度重なった。
もしHさんの心に、「分かっているけど出来ないんだ、うるさいな」と心に少しでもあれば、日常で思い出すことも工夫することもないでしょう。
一方で
もしHさんの心に、「不器用な自分を、繰り返し注意していただいて、ありがたいな。不勉強で申し訳ありません」と心に少しでもあれば、日常で思い出しもし工夫もするでしょう。
今日のHさんの居合を拝見しました。数年前に注意させていただいた点が、型を超えて技化していました。
私はHさんに伝えました。
「良く直しましたね、ご立派です。普通の人なら心で耳に栓をして、聞き入れないものです。今日、技化しているのを見て、心がけを感じます」。
小さな視点で見た場合
どんなにきれいに型を行っているように見えても、それが技化しているかどうかは、音を聞けば分かることがある。音や鞘の内側は、誤魔化しようがない。
会津伝小野派一刀流剣術の場合
良い技は「打ち合う剣が合気になって、くっ付いたように落ちるさまが、ポン」とする。
パンと甲高い音は、剣を叩いてしまっている。接点が負けて、剣の滑る音が混じるのも、悪い技。
無限神刀流居合術の場合
良い技は、鞘から抜けるような音がする。
悪い技は、鞘擦れの音が混じる。 鞘の内側を覗けば、手の内の硬さが一目瞭然。
「良い稽古は、裏表がない」と、言える身になりたいものだ。
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