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旧武徳殿の内観と全日本剣道演武大会の紹介 [武道:京都 合気道と剣術]

戦前武道組織と解散

ウィキペディア「大日本武徳会」より。 

(引用開始)

1938年(昭和13年)、武道審議会の設置が帝国議会で承認され、それを受けて、翌1939年(昭和14年)12月23日、厚生大臣の諮問機関「武道振興委員会[注釈 3]」が設置、この委員会は武道を総合統制する団体の組織化や政府内部に武道関連部署の設置等を政府側に答申。

1941年(昭和16年)5月には厚生省体力局武道課が新設された。同年12月22日、太平洋戦争開戦。同年12月、同じく厚生大臣諮問機関の「国民体力審議会[注釈 4]」は、新設する武道団体は政府の外郭団体として厚生省、文部省、陸軍省、海軍省、内務省の5省共管によるものとし、既存の武徳会を包含する形で新たな武道団体に改組・帰一させる旨を答申。

これを受けて1942年(昭和17年)3月21日、既存の武徳会を改組、会長に内閣総理大臣東條英機、副会長に厚生大臣小泉親彦、文部大臣橋田邦彦、陸軍大臣東條英機(会長兼任)、海軍大臣嶋田繁太郎、内務大臣湯沢三千男の各大臣と学識経験者1名をそれぞれ招き、理事長に民間人、各支部長には各地の知事をあて、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転。こうして政府5省が共管する新たな大日本武徳会が発足し、戦争翼賛団体の性格を強めた。同年度末には、全国に支部を建設し、会員数224万人、資金量559万円という膨大な会員と莫大な資金を持つ巨大組織となっていた。

政府の外郭団体となった武徳会は、大日本学徒体育振興会、講道館、日本古武道振興会、大日本剣道会、皇武会などを包摂組織とし、統制を行った。また、剣道、柔道、銃剣道、射撃道などの各部会を設け、各武道の振興にも寄与した。

1945年(昭和20年)の日本の敗戦後、武徳会は、全国の武道組織を統制する政府の外郭団体から民間団体へと組織を改編し、人員も刷新された。また、各武道組織の統制も消滅した。しかし、設立当初から旧内務省との密接な結びつきをもっていたため、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から解散を命じられ、1946年(昭和21年)10月31日に解散した。さらに1947年(昭和22年)の公職追放では、武徳会に関わった人物も対象となり、約1300名が公職から追放された。

 

(引用終り)

 

旧武徳殿の紹介

 

1899年に大日本武徳会により演武場として木造で造営されました。同会解散後は進駐軍に接収されたのち、2013年現在、京都市武道センターの施設として、京都旧武徳殿は、国の重要文化財として、保存利用されています。

明治時代における木造建築、あるいは武道の歴史に関する施設としての歴史的な評価もなされており、外観の写真はよく知られています。この度5月2日、「第109回 全日本剣道演武大会」を観覧させていただく機会を得ました。各古武道流派が演武している様子を、紹介させていただきます。

 

 演武者入場の様子

全日本剣道演武大会
 
 
 
 
手前は小野派一刀流剣術(津軽伝)
 
全日本剣道演武大会
 
 
 
全日本剣道演武大会
 
 

 


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