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朝鮮戦争参加の日系元米国兵士の犠牲 [正しい歴史認識:国防 自衛 護国]

    汚してはならない日系元兵士の誇り「われわれは韓国の自由のために戦った」

    産経新聞 2月18日(火)9時0分配信

     木々の枝から枯れ落ちた葉が幾十にも重なっていた。落ち葉を手でかきわけると、地面に埋まった墓石があった。一緒に出兵した朝鮮戦争で犠牲になった幼なじみの墓。「1951年 9月13日」。幼なじみが戦死した日付も刻まれていた。

     ロサンゼルスのダウンタウンから東に64マイル(103キロ)。ビクトリア調の住居が軒を連ね、田園地帯が広がるレッドランズ市の山間にその墓地はある。ロバート・ワダさん(83)は51年4月から52年5月まで、米海軍の兵士として、朝鮮戦争を戦った。出兵直前に18歳の若さで病死した妻も同じ墓地に眠る。

     両親は、広島・江田島から海を渡った。レッドランズは日系2世のワダさんが生まれ育った街、ふるさとだった。今の自宅からは、フリーウエーを飛ばしても片道1時間はかかるが、墓参りは欠かさない。

     先の大戦中、日系人らは「敵性国民」とみなされ、多くが収容所で生活を送った。ワダさんも少年時代、米南西部アリゾナ州ポストンの収容所で過ごした。「野球やバスケットボール、フットボール、そしてけんかに明け暮れた日々だった」という。

     真珠湾攻撃(41年12月)で始まった戦争。米国からみれば、日系人を収容所に移す政策は自然の流れだったのかもしれないが、自ら米国に渡った日系1世は当時の法律では帰化することができず、忠誠心を示す意思があったとしても、それは、なかなか容易ではなかった。だが、米国生まれの2世らの中には、進んで軍を志願し、忠誠を誓った人も多くいた。

     だから、戦争が終わり、レッドランズに戻ったワダさんも朝鮮戦争が始まったとき、躊躇(ちゅうちょ)することはなかった。韓国は「知らない国だった」が、米国民として出兵することを志願した。

     朝鮮戦争で犠牲になった日系人は256人に上る。ワダさんは97年に日系米国人朝鮮戦争退役軍人の会を立ち上げるために尽力し、4年間会長を務めたこともある。

     ワダさんらは2001年に訪韓した。南北に分断された朝鮮半島の非武装地帯(DMZ)がある坡州(パジュ)市に韓国政府の許可を得て、戦死した256人の名前を刻んだ碑を建立した。碑の前に立ったとき、自然に涙があふれそうになったという。

     あの年は、日本の中学歴史教科書の検定結果に対し、韓国が再修正を要求したり、小泉純一郎首相が靖国神社を参拝したことなどから日韓関係は冷え込んだ。「日系米国人の名前が刻まれている碑が日韓の懸け橋になってくれれば」との思いをその後も持ち続けた、とワダさんは振り返る。

     昨年夏のことだ。ワダさんは地元紙の記事を読んで、居ても立ってもいられなくなったという。30年以上住んでいるブエナパーク市の議会で、韓国系住民が推進する「従軍慰安婦」像を建てる提案がなされているのを知ったからだ。

     ワダさんは市議会あてに手紙を送った。自分の経歴や経験を記した上で、《こうした像を設置することは、多様性を認めるわれわれの市の一部の人にしか利益をもたらさない。そればかりか、日系米国人の痛みを深めるだけだ》と書いた。

     市議会がその後、韓国側の強い働きかけにもかかわらず、「この問題にはかかわらない」と決め、慰安婦像設置の採決を取りやめたことは周知の通りだ。

     「われわれは、韓国の人々がここ米国の地で、私たちをおとしめることを容認するために、命をかけたわけではない。国を愛し、韓国の自由を守るために戦ったのだ」。ワダさんはそう話した。

     戦争の歴史の中で生きた日本人の血が流れる米国人たちの誇りを感じる。汚してはならない誇りだ。(ロサンゼルス支局長・中村将)

    最終更新:2月18日(火)9時0分

     


タグ:朝鮮戦争
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