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惻隠(そくいん)の情(じょう)思いやり [素心]

惻隠(そくいん)の情(じょう)

簡単にいえば、思い遣り・同情の思いです。指導者であればお稽古人に対して、勝者であれば敗者に対して、惻隠の情なければなりません。

上位者が、慢心してはならない

指導者については「師とならば 弟子を立てるを 旨とせよ 己が強さを 示すべからず」の古歌が、説明しています。

勝・上手については世阿弥の名言「上手は下手の手本なり。下手は上手の手本なり」が、説明します。

師に対する稽古人。勝者に対する敗者。相対的序列があるとしても、それぞれに長所・短所あります。

「師や勝者」は、己の短所を矯め、長所を伸ばした地位にあります。しかし完全に短所を消しきることなどできませんし、長所に慢心しがちなものです。

「稽古人や敗者」は、己の短所に気づかず、せっかく持っている長所を伸ばしきれない欠点が明確です。

そこへ世阿弥は「上手には下手が手本になるし、逆もまた真なり」と、説いているのだと思います。

慢心を戒める心がけは、死生観から

慢心を嫌う、言い換えれば、完全を避ける感覚です。そしてこれは、日本人の死生観に通じます。今でも死者に着物は左前に、帯は縦結び、枕屏風は上下逆に。逆さ世界、不完全が存在します。

そしてこれは、縄文時代以来の風習です。哲学者 梅原 猛 先生の著述によると、ー土偶の多くのお腹は大きく、胎児を宿したまま亡くなった妊婦の像だと考えられる。様々の土偶は、死者の復活を願って作られていると考えられる。

発見された土偶は例外なく一部が欠けているが、それも「この世」で不完全なものは「あの世」で完全なものになると考えられたからだ。ー

科学思想の時代に希薄化する死生観

縄文人は、人は死ぬと西の空の彼方にある「あの世」に行くと考えていました。そのために「この世」は不完全に終わる。そして重要なのは、「あの世」とは、「この世」に帰ってくることができる場所でもあるということです。お盆に先祖をお迎えする風習は、今日も大切です。子供を授かると、先祖の誰かの生まれ変わりであるとも、考えます。これは縄文以来の考え方です。

しかし科学思想の影響で、こうした生まれ変わり風習や古来の死生観を、非科学的な幻想であると軽視する傾向が強いのも現実です。

競技武道の世界では、試合が終わった途端に、勝者がガッツポーズで歓喜する様は?受賞したメダルを噛んで見せたり?これを死生観に結び付けると、時代に合わないでしょうか?

私たちの会でも、子供審査会あります。努力して昇級できたお子さんは嬉しいでしょう。落選したお子様は、本当に残念でした。合格も不合格も、次の世界へのステップにすぎません。ただ、それだけです。

以前のことになりますが、指導員が合格したお子様と一緒になって「よかった!よかった!」と飛び跳ねて騒いでいたことがありました。私が「静かにしてください」と注意をすると、「どうして喜んじゃ、いけないんですか?」と言い返されてしまいました。

また別には、自分が指導するお子様が不合格になると、不機嫌不平な顔でいる指導員もいました。

これは価値観の部分なので、人それぞれで、あまり追及しません。最近は、少し改善したかもしれません。

合気道子供審査

掲載した写真は、今年の春季審査会東京地区のものです。級ごとに分かれて、一人ずつ課題の技を行います。審査員は、成績表にチェックします。この場面は、一人ひとり成績表を渡しているところです。右後ろには、受け取った成績表をのぞき込んでいる子供たちの様子が見えます。保護者様・お子様にとっては、緊張のひと時です。

合格しようが不合格であろうが、静かにしているべきです。栄枯盛衰・諸行無常は、宇宙・生命科学と矛盾しません。


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