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心技体とは [素心]

武道で気剣体とは、技のかかる理想的境地を説明する時に使います。

力より技は高く、技より術は高く。術レベル(スキル・熟練能力)の高さで形や動きを説明する時、「気剣体一致」と表現することがあります。

心技体とは、稽古方法を考えるときに使います。「運動の要素を三つに分けて、心技体のバランスの良さ」という場合もあります。今日はこの三つの関係を、考えます。

心技体とは、重要なものから配列されています。「心が主、技が従。技が主。体が従」。あるいは「体力より技術。技巧に勝る心」。しかしこれは理想形です。宗教を学ぶなら、それで良いでしょう。仏心なり神心なりを、武道の目的とすると言い切れる人は、それで良いかもしれません。

しかし武道の場合、現実の心は別の意味です。危難に際して踏み込んでいく勇気。恐怖を乗り越える克己心。などです。仮に心技体の心を、「恐怖を乗り越える心」と定義すると、心技体の関係は、理想形とは別のものになります。

剣の理合で合気を稽古する我々は、恐怖を感じながら稽古します。剣の速さを修錬する。それは同時に「剣の速さの怖さ」を知ることです。剣の速さで頭や小手を斬られる怖さは、殴られる怖さとは違うものです。ですから身体を固めるのではなく、緩める方向へ稽古するのです。円運動ではなく、直線の関係を稽古するのです。剣術も体術も、結果として円に見えるだけのことです。

真っ向から仕掛太刀が正面斬りに来る。たとえ木刀であっても、この恐怖は言い様ありません。ただ「アッ!」です。仮に悟りを開いた方であれば、「火もまた涼し」・「電光影裏に春風を斬る」と、平気で斬られるのかもしれません。ところがこちらは凡人です。生き抜きたいのです。どうしたらこの恐怖から逃れられるのでしょう?

恐怖からの救いになるのは、技術的裏付けです。打太刀は、どのタイミングで、どの方向へ剣を立て、どのように剣に身を入れるかを知っているとする。無防備に剣を振るのではなく、どうすれば徹底的に護れるか知ったうえで剣で攻める。こうしてはじめて打太刀は、恐怖を最小化できます。坦々とやるべきことを、やるだけです。

そして、精緻な技術を確実にするのが、身体的裏付けです。緩んだ瞬間に等速直線運動。これができる身体があってはじめて、技術の確実性が担保されます。

心技体とは、身体が技を担保し、技が心を担保する関係のことだと思います。担保という言葉が難しければ、身体が技の受け皿であり、技が心の受け皿です。受け皿は、型・形とも表現されます。


タグ:心技体
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