平常心と狂気 [素心]
武道の稽古とは
武道の稽古は、平穏な生活に、暴力・狂気の沙汰を想定して、どのように平常心を保つことできるか。そうするための体使いと技術の養成が、武道の稽古です。体・技・心と、養ってまいります。
ある日のこと
ある稽古でのこと、相手は長年稽古している方です。こちらの攻めに対して、彼は中心線が開いて、外へ頭がふれました。
私:「怖いですか?」。
彼:「やはり、怖いです」。
私:「私も同様に怖かったです。今も怖いですが、それを補う技術を養ったので、多少はましになりました」。
彼:「いつになったら、できるでしょう?」。
このような会話ありました。
攻防
言葉に攻防とか、攻守とあります。「攻撃」が先で、「防備」が後になります。
では、どちらが大切でしょう?
もちろん防備でしょう。歴史を振り返ってください。
かつて平和を愛する国がありました。よくカルタゴ・ハワイ・チベットが例に挙げられます。防備がおろそかであったために、侵略されてしまった国です。平和と中立の意味を取り違えと、考えます。
一方、永世中立のスイスはどうでしょう?スイスは国民皆兵制です。正確には男子全員徴兵制、女子は任意。各家庭には自動小銃が保管されています。
銃器などの兵器も自国で作っています。スイスの永世中立というのは「どこの国家・陣営にも与しない」という意味であって「武力を持たない」という意味ではありません。
他国を侵略するような事はしませんが、自国を侵略する敵に対しては徹底的に戦います。第二次世界大戦では、領空侵犯するドイツ・連合国側の飛行機の双方の約250機を撃ち落しました。スイスの戦闘機も約200機、犠牲になったと、どこかで読んだことあます。
防備さえしっかりしていれば、受けないで済む攻撃もあるでしょう。
備えあれば憂いなし
「狂気の攻撃」に「平常心で防備する」には、日常の備えあって初めて、何らかのものが得られると思います。
武道の稽古は、空かない中心、有利な間の取り方、緩んだ心身。養気錬丹の大切さは、いうまでもありません。
平常心。そこへ宗教的、形而上的な余計な修飾を施すことは、実際の稽古とは無縁の者のなせるわざ。一朝事あれば狂気に対し、如何に速く、無駄なく、効率よく相手を斃すかのみとなる。その備えのための平常心です。
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