衆生と仏、地獄と極楽 [素心]
私の机の正面に、道元禅師の歌を、ボールペンで走り書きしてあります。
「おろかなる われは仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身なれば」
(道元禅師和歌集『傘松道詠』)
禅者でもない浅学な私には、正確な理解はできないことを前置きして、感じたことを書いてみます。
自力
自力とは、自らの力で自らの悟りのために修行し努力することと、ここでは定義しましょう。道元禅師は曹洞宗の開祖。一般に道元禅師は、自利・自力の総本山の開祖と考えられます。
道元禅師の本心
おろかなる われは仏に ならずとも
愚かな我は、仏の悟りを得られなくとも
衆生を渡す 僧の身なれば
一切衆生を先に仏の世界へ渡さんと願いを起こす。自分の悟りよりも衆生の成仏を助けることが大切だと、断言しています。それが僧の身だというのです。
自利・自力の総本山の開祖の本心は、利他・他力とも感じられます。
地獄と極楽
白隠禅師の座禅和讃に「衆生本来仏なり」とあります。衆生と仏の関係は、水と氷の関係と同じで、水がないと氷ができないように、衆生以外に仏はあり得ないそうです。
私なりに捻った言い方をすれば、本物の衆生こそ、真の仏になりうるかもしれません。
我々が学ぶ武道の極意歌にも、似た教えあります。
斬り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ 一歩踏み込め あとは極楽
へたをすれば、太刀の下こそ死地であり地獄です。
しかし、斬り結ぶ太刀の真下に入り込んで、勝った受けをする。そこから相手の中心へ向かって、直線に踏み込むと勝を得ます。
ですから斬り結ぶ太刀の真下は、地獄でもあり極楽でもあります。どちらにするかは自分次第です。
道元禅師にとっての僧の身は、仏でもあったのではないかと考えます。もちろん自力と他力の区別など、あったはずはありません。
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