父老いて 母一周忌 知らぬまま [家族]
オホーツク海の流氷の知らせが届くころ、私の住む千葉市も、一番冷え込みます。私の家の前が公園で、大きな池があります。この時期、池が凍るのです。
母の一周忌の朝も、凍っていました。この氷のように、母への私の想いは、今も冷たく凍ったままのように感じたものです。
方針を決めた日
母は、糖尿病による血糖値のコントロール不能に陥り、亡くなりました。自力でいよいよ食事できなくなった時、医師は父と私を呼んで、「次は胃瘻となりますが、ご承諾いただけますか?」と質問しました。平成27年1月初旬のことです。
その時、90歳の父は「延命措置は一切やめてください。このことについては、妻とも話し合って、お互いに延命はしないと決めていました」と、きっぱり言い放ちました。
思いがけない展開に、私は躊躇しましたが、父は毅然としていました。医師も「どう対応したものだろう」というような沈黙が続きました。やがて医師の口から、「では、看取りというながれになりますが、よろしいですか?」と、確認する発言がありました。
私は、まだ「こんな風に突然、決まってしまって良いのか?」と、迷いました。
そこへ父は間髪を入れず、「はい、それでお願いします」と、簡単に答えました。私は、まだ父が発言を訂正する可能性を期待してました。医師は「それでは看取りまでの予定を組みます」、のような発言をしたはずです。私の記憶はここで途切れています。
私はこの後、大阪にいる兄へ電話しました。私が状況説明すると、受話器の向こうで兄が天を仰ぐような時間と気配がしました。
兄は「親父がそう言っているんなら、しょうがないだろう」と。これでまた一つ、望みが失われました。
自分はどうする
昨年末の母の入院から、容態は悪化し続ける展開でした。いつかこうした日が来ると思いましたが、今日は衝撃を受けました。そのまま帰宅し、妻へ報告しました。妻の口調は厳しいものでした。
「胃瘻でも、意志が伝わる状態まで改善することもあるのよ!かわいそうじゃない!なぜ反対できないの!」。
私は思いました。これまでの母の長い闘病。満身創痍の現在。危難に際し、「船頭多くして船山に登る」愚かは避けたいと考えました。
今回、「かわいそう」は押し殺して、父の判断のままに従うことにしました。
私は「反対できない」と、答えました。
妻は納得せず、遠戚に胃瘻で闘病を続けている方の例を、語っていました。
一週間ほどして「看取り施設へ移ります」と、連絡が入りました。兄は大阪、父は折悪しくインフルエンザに罹患しました。私一人、最期の5日間を付き添うこととなりました。とても重い体験でしたが、まだ母への気持ちの整理ができていないので、語ることはできません。
良し悪しは?
私「おばあちゃんの一周忌になるよ?」。
父は悠長に答えました。「あー。そーか。法事してやらないといけないな」。
母の死を自然に受け入れ、自分の余命を見つめている様子です。
最期の方針の良し悪しは、分かりません。「そういう経過で、今に至った」としか考えられません。仕事から帰ると、遺影に「ただいま」と挨拶する毎日を過ごしています。
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