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父、死出の旅へ「さようなら」 [家族]

日曜日の朝稽古の後 

稽古を終え更衣室で着替えている時、外から大声がしました。

K子「石川先生!さようなら!」

私は窓へ向かって叫ぶ「さようなら!」

すると次に

M男「石川先生!さようなら!」

私は叫ぶ「さようなら!」

このやり取りが面白かったのか、再び

M男「石川先生!さようなら!」

近所迷惑かと思って、私が黙っていると。

M男「石川先生!さようなら!」と何回か叫びました。やがて

M男「あれー?いないやー!」と声がして、去ってゆく気配を感じました。

子供たちの声音から、「いつも怖い石川先生、稽古が終わってほっとしているよ。怖いけど、なんか面白いよ。また来週まで元気でね。さようなら!」。私には、そう聞こえてなりませんでした。すると何とも言えない幸福感が、沸き起こって来ました。

では、今から死出の旅へ出る人がいう「さようなら」、どんな思いが込められているのでしょう?

父、急の別れ

去る5月23日(月)深夜0時頃に、父は亡くなりました。

今年1月末、私の家の近くの老人ホームへ、東京から父を招きました。毎日、私か嫁が面会し、新しい生活に慣れていただきました。食事を充分摂り、睡眠を規則正しく。少しでも長く安寧な日々を、過ごしていただきたいと願ってました。

ところが5月2日、父の血中酸素濃度が低いため救急搬送されました。肺炎球菌による肺炎治療のため、2度目の入院をしている5月20日(金)のことです。兄も見舞いに来ていて、いつもの父らしく言いたい放題の様子でした。私は「今日も元気だな?」と、用件を済ますと稽古へ出ました。こんな時の父の挨拶は、「すまんな?いつも、面倒を掛けて!」でした。

週末の私は、長時間の稽古指導あります。土曜日は8.5時間。日曜日は8時間。忙しい私に代わり、嫁が老人ホームを訪問します。

5月22日(日)、私は本部道場の朝稽古を終えて、2か所目の江東区北砂へ移動します。北砂で指導中の昼頃、嫁からメールが来ました。

「お父さん弱っているから、会って来た方がいいよ」、というものでした。「金曜日は病人らしく静かにしていたのに、どういうことだろう?」と、私は感じました。江東区北砂を終えて3か所目の千葉県八千代市へ移動、クラス終えたのが夜7時です。父のいる病院へ到着したのは、8時です。

父は、声を出せなくなっていました。目と手で、盛んに何かを伝えようとしています。付き添いの方に聞くと、酸素濃度の数値は良くなっているので、明日午前に検査があるとのことでした。私は父へ「明日の検査が良ければ、退院できるかもしれないよ」と、話しかけました。

私がベットに近づくと、父が両手を伸ばしてきます。私はその両手を取りました。父は私の手に捕まって、グッと寝ている身体を起こしました。それの手の力は、思いがけない強さでした。私と付添人は、驚くとともに慌てました。父がベットの外へ立とうものなら、数人の看護師達が拘束帯を持って駆けつけ、ベットに縛り付けてしまうことを知っていたからです。残念ながらそういう事態が、一度目の入院で起きていたのです。これは父にも原因があったので、この病院対応を責めません。

私たちは父をなだめて、落ち着かせようとしました。父は盛んに目と手で、何かを伝えようとしました。病室へ持って来ていた母の遺影を、持たせれば落ち着くかと思いましたが、だめでした。「疲れてしまうから、寝ていた方がいいよ」。「明日、退院できるようになるかもしれないから、大丈夫だよ」。繰り返し語りかけました。

それでも父は、盛んに何かを伝えようとしています。それでも声が出ないことが、もどかしそうでした。付添人が忖度し「(私が)仕事で疲れているから、もう帰っていいよ!と言いたいんでしょ?」と、父に話しかけました。すると父はうなずくような所作とともに、静かになりました。

「じゃ、明日また来るから、よろしくお願いします」、そのような挨拶を父と付添人にして、病室を出ました。まさかこれが最期の別れとなるとは、思いもしませんでした。

翌5月23日(月) 0時10分頃、私の枕元の携帯が鳴りました。この時、私は何が起きたか察知しました。電話に出ると看護師が「呼吸をされていないので、すぐ病院へ来てください」と、語りました。

常在戦場

0時40分、私は病室へ駆けつけました。父自身にとっても、私にとっても、断ち切られたような最期でした。付添人の方が「まだ温かいんですよ」と語りながら、父の頭や耳をさすってくれました。医師は、「では御一緒に、確認させていただきます」と語り、脈拍や瞳孔を診て死亡確認を始めました。「0時50分、御臨終です」と、丁寧に頭を下げました。

その後、兄の待つ東京都調布市へ、父の亡骸を搬送しました。3時30分に千葉を出る時、運転手さんは「4時30分到着予定です」と、語りました。未明の京葉道路の穴川から入り・首都高速・中央高速の調布出口まで疾走します。私の座る右側に、亡骸はシートに覆われてます。車の振動で亡骸が揺れ、シュッ!シュッ!とシートと擦れて鳴るのです。

「お父ちゃん、こんなに揺れて、申し訳ない!」

 シュッ!シュッ!

「つい数時間前に手を握っていたのに、常在戦場だね?死期を感じて、病室に留まるべきだったね?」

 シュッ!シュッ!

「最期の面会の時、必死に何かを伝えようとしていたね?本当は何を言いたかったの?」

 シュッ!シュッ!

それを私が「疲れてしまうから、寝ていた方がいいよ」と、遮ってしまったのではないか?

 シュッ!シュッ!

ただ、シュッ!シュッ!としか、返ってきません。車が日本橋、日本銀行まで来たところで、記憶が途絶えます。眠りに落ちてしまいました。目が覚めると、中央高速調布出口でした。葬儀会社の駐車場へ着くと、兄の車が待っているのが見えました。

「さようなら」

兄が、父の亡骸と面会した時のことです。焼香を済ませた後、兄は父の右肩へ、黙って手を添えました。私には、兄の心の語り掛けが聞こえました。

「長い間、本当にお疲れさまでした。働き通しの人生だったけれども、少しでも楽しめたのかい?どうぞ安らかにお休みください」と。

最期の面会の時、父が何を伝えたかったのか、気になり続けました。6月1日告別式を迎えました。父はあの時、自分の死期を悟っていて「俺はもう逝くよ。お別れだよ」と言いたかったのだな、そう思うようにしました。でも本当は、分かりません。

父は旅へ

写真は、今は二十歳で身長180CMの息子が、幼かった頃のものです。夏休みに、父が自転車の後ろへ息子を乗せ、プールに行きました。父は去年まで、自転車に乗っていました。母も父も、こうして旅に出たと思い、諦めるしかありません。

今日は、どこまで行ったことでしょう。さようなら。

蓮ちゃん幼児.JPG

爺ちゃん自転車.jpg

タグ:さようなら
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