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煩悩即菩提で白秋・林住期を生きる [素心]

季節折々、人生折々

人生に望む欲望の充足と不充足、成長と衰退。季節折々の変化と同じように、人の成長と衰退あり、人生折々の役割を自覚したいものです。

「人生の四季・四住期・世阿弥の初心」を比較しながら、「武道家として、煩悩即菩提で白秋・林住期を生きる」ことを考えます。

人生の四季

人生を四季で表現する言葉があります。青春、朱夏、白秋、玄冬といいます。

青春 緑の時期であり、未熟さを意味し、これから熟していく勢いを、増していく時期だそうです。
両親や周りの人達の援助を受けて、勉学にいそしみ、社会に出て、新しい自分の家族を起し、ひとり立ち準備の年代です。

朱夏 人生の真っ盛りの年代。この年代の前半は、子育てに追われ、与えられ仕事をこなし一人立ちする年代。後半は今までの成果の刈り取りをし、次の白秋玄冬へ繋いでいく年代だそうです。

年齢的にいえば、青春とは三十歳くらいまでのことになるだろうか。朱夏は三十歳から五十歳。白秋は五十歳から七十歳あたりか。玄冬はそれ以降でしょうか。

人生の四季に似て、インドには古くから、人間の一生を四つに分ける思想あります。四住期とも訳されます。この説明の方が、4つの段階が分かりやすいです。

四住期

バラモン教法典においては、バラモン教徒(シュードラを除く上位3ヴァルナ)が生涯のうちに経るべき段階として、以下の4段階が設定されているそうです。

  1. 学生期(がくしょうき)生れてから社会に出るまでの準備期間。学問と礼節を身につけて、身体を鍛える期間です。バラモン教法典においては、梵行期。(ブラフマチャルヤ、brahmacarya) - 師のもとでヴェーダを学ぶ時期。
  2. 家住期(かじゅうき)仕事を持ち、結婚して子供を育て、社会貢献する。バラモン教法典においては、(ガールハスティア、gārhasthya) - 家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する時期。
  3. 林住期(りんじゅうき)社会での役割を終えると、家を出て一人自然の中に身を置きます。自らが進んできた道を静かに振り返る時期です。バラモン教法典においては、(ヴァーナプラスタ、vānaprastha) - 森林に隠棲して修行する時期。
  4. 遊行期(ゆぎょうき)やがて自分の死が見えてくる。後悔や未練に苦しむことなく、静かにその時を待つ。バラモン教法典においては、(サンニャーサ、samnyāsa) - 一定の住所をもたず乞食遊行する時期。(以上の四住期は、ウイキペディアの記事を加筆・編集しました)

季節が移ろうように、人生も四住期を移り変わっていく。

私は白秋・林住期へ

肉親との死別の苦しみを、仏教で愛別離苦(あいべつりく)といいます。私は昨年母を亡くし、今年父を亡くし、大切な両親を失いました。この喪失感は深いものですが、見方を変えると、同時に両親への社会的義務を果たしたともいえます。一人息子は今年成人式を済ませ、自分で選んだ進路へ進みつつあります。私は家庭への社会的義務も、果たしました。私の朱夏・家住期は、終わるべき時期にあるといえます。

次に私は白秋・林住期へといっても、「家を出て一人自然の中に身を置きます」ということはありません。首都圏での生活は続くので、本当の林住期とはいえません。「自らが進んできた道を静かに振り返る時期です」、という意味での白秋期です。

振り返る

青春・朱夏・白秋・玄冬という時、色にも意味あります。青は草木の葉がさかんに生長する成長する色。朱は、樹木が育って切株の年輪の赤い部分のこと。さて問題は、白秋の白です。

白には1、人工的な白色 2、特別の色が付いていないこと の二つに分けられ、白秋の白は後者であると思います。白(しろ)は、全ての色の可視光線が乱反射されたときに、その物体の表面を見た人間が知覚する無彩色です。なぜなら白秋は「振り返る」生き方、すなわち自由に生き透明な自分を取り戻す時期だからです。

自由に生きる

朱夏・家住期は、家族・社会への責任を果たす。その後の白秋・林住期は、自分の本当にやりたいことをやるべきです。ところが私はどうでしょう?最初から武道という自分のやりたい仕事を、選択してしまいました。他にやりたいことは、ありません。しかしそれは、形式的なことにすぎません。形式的には武道家として、自由に生きている。だからといって本質的に、自由に生きているとはいえません。

心の自由

本当にやりたいことをやっている、しかし心は自由でしょうか?舟が長い航海をする。すると船底に貝殻が付着する。海水との抵抗が高まり、速度と燃費が落ちる。だからドッグに入り、船底を掃除します。同様に、たとえ好きな仕事でも、長い年月の間に、心に貝殻が付着します。

人が社会を生き抜くのも闘争なので、いつしか心に鎧を着ています。その鎧を脱いで心の自由を取り戻すのが、振り返りであり白秋・林住期であると思います。

しかし「心の自由な働き」が何なのか?疑問残ります。

武道家として

心の貝殻、心の鎧、仮にそれを恐怖心・執着心と表現します。心理カウンセラーや宗教家は、恐怖から自由になる方法について、分かりやすく説いてくれると思います。武道家は、技の修錬で体得すべく示します。だからといって、「心理カウンセラーや宗教家は、座学。武道家は行動の哲学」という区分けは安易です。どちらも社会生活での活用を目的としていることは、同じです。

武道家の特徴をあえていうならば、「危難の中に身を置いて、そこから離れることなく」であるとおもいます。

初心を忘れるべからず

世阿弥は、人生の中にいくつもの初心があるといいます。若い時の初心、人生の時々の初心、そして老後の初心。それらを忘れてはならないというのです。

「是非の初心を忘るべからず」、世阿弥のいう「初心」とは「始めた頃の気持ちや志」すなわち「初志」ではなく、「芸の未熟さ」のこと。若い頃の未熟な芸を忘れなければ、そこから向上した今の芸も正しく認識できるのだとしています。


「時々の初心を忘るべからず」、若き日の未熟な状態から抜け出した後、年盛りから老後に至るまでの各段階で年相応の芸を学んだ、初めての境地を覚えておくことにより幅広い芸が可能になる。

「老後の初心を忘るべからず」、老後にさえふさわしい芸を学ぶ初心があり、それを忘れずに限りない芸の向上を目指すべし。

以上の三つに、武道の経験を当てはめて考えます。老後の初心こそ、私の目指すべきものです。老後の初心と心の自由、それが何か?是非の初心・時々の初心と比較して考えます。

是非の初心 恐怖心

最近、指導員に登用した有段者の剣術稽古で、起きたことです。Nさんが仕太刀(攻めて負ける側)、私が打ち太刀(誘って勝つ側)で、「斬り落とし突き」という技の模範を行いました。基本の刃筋と拍子を示します。次に私が仕太刀、Nさんが打ち太刀で、「斬り落とし突き」をやらせます。基本形を行わせます。この後、事故が起きました。

私に代わってKさんが仕太刀、Nさんが打ち太刀で、「斬り落とし突き」という技を行いました。私とKさんの打ち方の拍子の違いに戸惑い、Nさんの心身は居着いてしまいました。とっさに早振りをしてしまう。空いた中心に、Kさんの剣が、吸い込まれるように入ってしまいました。剣がNさんの額を、強打しました。

私は瞬時に「仰向けに寝ろ!」と、叫びました。しかしNさんは、呆然と立ち尽くしてます。私は背後に寄って、肩に手をかけ、仰向けに寝かせました。血液が割れた額から、頭髪を伝って流れます。床に血だまりが、大きくなっていきます。Nさんを寝かせたまま、Kさんにバケツと雑巾を用意させ、片づけているうちに、血は止まりました。

一拍子相討ち、剣術の稽古の怖さ・難しさを知ると、人は誰しも気持ちが折れる。今まで何人も、稽古を断念する人を見てきました。稽古着を整えてるNさんへ、私は声を掛けました。

私「今日は止めようか?帰っても良い」。

N「いいえ!やります!」と答えが返ってきました。

私「じゃ、しっかりやってくれ」。

この日の夜、Nさんからメールが来ました。自分の未熟さに、気落ちしていました。



 

こんばんは



先程は自分の不注意でご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした。



大した怪我でなくて良かったです。



夜の稽古は無事終了しました。



今日を忘れずに稽古に励んでいこうと思います、よろしくお願いいたします。




というものです。翌週の稽古の日が来ました。

私「今日は、何をやろうか?」。

Nさん「先週のを、もう一度やりたいです」。

剣の速さったら、いいようがない。一瞬で撃たれる。貴方が怖いと同じように、私も怖い。それを克服すべく、体使い・技術・気の持ちようを、錬るしかない。相手の中心に向かって、気剣体が一枚板になるように、自分が入っていくしかないのだ。少しでも隙間が生じれば、相手の剣は入ってくる。その方向で、稽古しました。Nさんが恐怖心を克服するのは、この道しかありません。観念的な説法は、何の役にも立ちません。


時々の初心 執着心

Fさんは、自分の主宰する道場を持つ、経験豊富な指導者です。Fさんは良い型を体得しているので、他のお稽古人様にも、よく彼を見るように話します。

しかし稽古は、「型より入って、型より出る」といいます。写真を撮ったように同じ型が、良いものではありません。自分の気性・体に合って尚且つ、術的に錬ったものが、良い型でしょう。今まで真剣に型を追って来た者が、そこから出る、今までやってきたことを捨てるのは困難です。そこに執着が生じます。

貴方のやっていることと、私がやっていること、似て非なるものです。それを示し導くのが、師範の「範を示す師」といえるところです。

これが居合の型指導であれば、見た目には同じに見えても、鞘の柔らかい握り方・右手の小さな動き・中心の微妙な維持などを示し、Fさんの型を再検討していただきます。こうしてFさんは初心に立ち返り、型とともに芸の幅を広げていきます。観念的な説法は、何の役にも立ちません。

老後の初心

NさんやFさんの例を挙げました。こうした方々に内面から指導させていただけるのは、私自身が持つ心の鎧のおかげです。Nさんの恐怖心やFさんの執着心、自分自身が経験し乗り越えてきたから、できることです。

成長の過程で心の鎧を着ることは、自然かつ必要なこと。こう考えてくると、心の殻も鎧も、愛おしいものです。先ほど私は「人が社会を生き抜くのも闘争なので、いつしか心に鎧を着ています。その鎧を脱いで心の自由を取り戻すのが、振り返りであり白秋・林住期であると思います。」と申しましたが、これも疑わしくなります。心の鎧をいつも着ているのは苦しいので、心のポケットにしまっておく。必要な時に取り出して、体験として生かす。それを「心の自由な働き」と考えて、良いと思います。

煩悩即菩提といいます。煩悩・生存欲を否定したのでは、生命も維持できません。煩悩は生きるための食べ物と同じです。生命・本性が働いて初めてそれが菩提となり、煩悩がやがては悟りの縁となるのでしょう。

恐怖と執着を菩提として、心技体を錬磨する。その過程で心の鎧も着る。身体に故障も起きる。これは「老いの伴う成熟」です。老いを受け入れつつ、成熟を修行者の成長に活用する。これが白秋・林住期を生きる、私の老後の初心としたいと思います。

長年の身体の酷使が祟って、腰痛悪化しました。右足の痺れが取れず、踏ん張りが効かず、上手く走れなくなりました。稽古の休憩で子供たちとよく遊んだことが、楽しい思い出です。駅構内や体育館でも、エレベーターを利用させていただくようになりました。思ったよりも早く、こんな時期を迎えてしまいました。寂しいものです。しかしこんな腰と付き合うのも、稽古です。続けるしかありません。

私が70歳になった時、ただの老いぼれか、技使いの爺さんか。その時、はっきりします。


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