公開されている「パークス襲撃事件」で使用された刀。右が襲撃側の「林田貞堅佩用の刀」、左が迎え撃った「中井弘佩用の刀」=京都市東山区の京都国立博物館(志儀駒貴撮影)

写真拡大 (全3枚)

 激しく斬り合った二振りの刀が150年の時を超え、京都で巡り合った。

 徳川幕府の将軍、徳川慶喜が政権を朝廷に返上した「大政奉還」から約4カ月後の慶応4(1868)年、駐日英国公使のハリー・パークスが、京都で2人の攘夷志士に襲われたパークス襲撃事件。このとき使用された刀が、京都国立博物館(京都市東山区)で開催中の特別展「没後150年坂本龍馬展」(11月27日まで)で公開されている。刀の一方は襲撃した攘夷志士・林田貞堅(さだかた、別名・朱雀操)のもので、もう1本は護衛した元薩摩藩士の中井弘(ひろむ)が使用。激しい打ち合いを物語るように深く食い込んだ刃こぼれが生々しく残る。刃こぼれのある刀が後世まで残り、展示されるのは非常に珍しい。刀が残された秘話とは-。(北崎諒子)

開国に反発、英国公使に斬り込む

 事件は白昼堂々のことだったという。

 京都出身の林田と、かつて倒幕運動の先駆けとなった「天誅(てんちゅう)組」だった三枝蓊(しげる)は、外国との交流を始めた明治新政府の外交方針に反発。戊辰戦争さなかの慶応4年2月30日、天皇謁見のために京都御所に向かっていた駐日英国公使のパークスを狙い、行列に斬り込んだ。

 2人を迎え撃ったのは、パークスの護衛のために行列に加わっていたメンバーのうち中井弘、それに坂本龍馬とともに大政奉還の功労者となった土佐藩士の後藤象二郎の2人だった。

 行列の中で事件を目撃したとされる外交官のアーネスト・サトウの回顧録などによると、中井は騒ぎを聞きつけ、馬から飛び降りて林田に応戦。後藤の助けを得て林田の首を取り、三枝も戦闘の中で取り押さえられたという。

 林田がその場で自ら腹を切り、中井が首をはねたという説もあるが、事件では結局、イギリス人兵士9人が手首を切り落とされるなど重軽傷を負い、パークスは無傷で済んだ。

 後に新政府は公式の謝罪文を送り、功績の大きかった中井ら2人には英国政府から洋刀が贈られた。一方、林田と、後日斬首された三枝の首は、京都市山科区にあった粟田口刑場で3日間さらされた。

攘夷志士祭った神社で偶然発見

 この事件で林田が使っていた刀は長さ74・3センチ、室町時代の作で、「兼元」との銘がある。これに対し、中井の刀は無銘。長さ67・4センチで、江戸時代に作られた。

 今回、この2本の刀がそろって展示されたのだが、なぜ刀は残され、約150年を経て相まみえたのか。そこには少しの偶然と、林田を敬う遺族・子孫の思いがあった。

 京都国立博物館の学芸部列品管理室長、宮川禎一氏(57)は今年7月ごろ、霊明神社(京都市東山区)で坂本龍馬に関する調査を進めている際、奉納されていた刀を発見。奉納した際の資料や刀傷などから、パークス襲撃事件の際の林田の刀だと確認した。まったくの偶然だった。

 同神社は文久2(1862)年に長州藩士の招魂祭を行ったのをきっかけに、幕末から明治期に殉難した尊皇攘夷の志士を祭るようになった。そこには坂本龍馬や中岡慎太郎も含まれ、後に京都霊山護国神社が管理するようになるまで、志士らを祭った。そうした霊明神社に林田と三枝の墓もあり、林田の刀は明治21(1888)年、親類が同神社に奉納したのだ。

 以降、刀は同神社が大切に保管するとともに、子孫らも同神社で定期的に法要を営むなど、大切に取り扱われてきた。襲撃犯だったかもしれないが、遺族や子孫らにとっては、幕末・明治を走り抜けた「人物」であったのだろう。

峰にも残る刀の傷

 一方、中井の刀は明治36(1903)年、「平民宰相」と呼ばれた原敬(はら・たかし)が京都国立博物館に寄贈していた。原敬は、中井の長女の夫であり、中井とは娘婿の関係だった。

 事件では、三枝の刀も親族が代々保管していたが、平成7年の阪神大震災で行方不明になったという。

 それぞれの運命をたどった刀。林田の刀を発見し、調査にあたった宮川氏は「刃こぼれした刀、しかも斬り合いをした刀同士がそろうのが異例」という。

 宮川氏によると、博物館などで展示される刀は実戦で使われた刀ではないことが多い。その理由は、幕末当時、実戦で使われ、刃こぼれした刀は、研ぎ直されることなく捨てられることが多かったためといい、「刃こぼれした刀自体が残ることが珍しい」(宮川氏)。

 直接斬り合いをした林田と中井の刀には複数の刃こぼれが残っており、林田の刀は峰にも傷があった。宮川氏は「同等の力でぶつかりあった証拠が両方の刀の傷に表れている。一方、林田は大人数の中に切り込んでいった。刀の峰の傷からは、林田が必死に戦った様子が浮かぶ」と思いをはせる。

 「日本の将来を揺るがす事件で使われたという意味でも非常に貴重な発見。林田と中井が命のやりとりをした証拠だ」。宮川氏は2本の刀がそろったことの価値を指摘する。

 一方、林田の刀を守り続けてきた霊明神社の村上繁樹神主(68)は「もしパークスが傷つけられていたら、日英関係に非常に大きな影響を与えていたほどの事件。守る側も攻める側もそれぞれの思いがあった。新しい時代を迎える局面で行動した、当時の人たちの志を少しでも知ってもらえたら」と話した。