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吉良上野介と面談―西本願寺で史料発見 [正しい歴史認識:国防 自衛 護国]

刃傷事件後「痛み軽い」=吉良上野介と面談―西本願寺で史料発見・京都

時事通信 12/3(土) 4:04配信

 江戸城・松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に切り付けた「忠臣蔵」の刃傷事件の後、吉良の様子を伝える記録が西本願寺(京都市下京区)の所蔵史料から見つかった。

 吉良について「痛みも軽く、食事も変わらない」と記されていた。西本願寺によると、事件直後の吉良の様子を伝える史料は極めて珍しいという。

 史料は「江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうのとどめちょう)」。西本願寺から江戸の築地本願寺に出した手紙の内容を記録したもので、刃傷事件から赤穂浪士の討ち入りまで、2年足らずの吉良と寺側のやりとりが含まれていた。

 史料によると、元禄14(1701)年3月14日の刃傷事件後、吉良家と親交のあった西本願寺は江戸の関係者らに、見舞いや原因究明を求めた。同年4月5日の手紙には「吉良殿、痛みも軽く、食事も相変わらず」と記述。同10日の手紙では吉良の辞職について触れ、西本願寺側の人間が吉良本人と直接面談したとの記述もあった。

 刃傷事件が起きたときは「不慮の儀」(思いがけないこと)と記述していたが、その後は「(浅野の)乱心」と表現。西本願寺は「うわさでもいいから詳細を知りたい」と江戸に要請するなど、深い関心を寄せていた。元禄15年12月14日の討ち入り後、同24日には「驚いたことである。言語に絶える」とつづっていた。

 本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員は「吉良家と近い関係だった寺側にも、事件の真相はつかめていなかった。浅野家にとっても同様で、この不透明性こそ、討ち入りに発展した原因ではないか」と話している。


タグ:吉良上野介
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