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合気道楽心館HPの記事に、更新があります。 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

東京・中野合気道稽古日誌  齋藤 治三

建築物のバランスと合気   中澤 俊幸

合気道と倒すメカニズム    五十嵐 政志

以上三つの記事の更新がありました。SN3D06090001.jpg

写真は金曜日昼過ぎの光、これから足立の稽古へ向けて、出ようとする時。


タグ:e楽修
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合気道 技 写真:子供KIDSの演武 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

中野で9月23日に行われた、秋季子供審査会の写真です。

写真それぞれに、説明を入れました。ここをクリックして、左上の「スライドショウ再生」を使うと、お読みいただくことが出来ます。Click here you can look all photos.

動画はここ。Click here you can look youtube.


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合気道 技 写真:片手取り入り身転化 呼吸投げkokyunage [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

(写真それぞれに、説明を入れました。ここをクリックして、左上の「スライドショウ再生」を使うと、お読みいただくことが出来ます。Click here you can look all photos.)

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合気道 技 写真:下げ手 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

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合気道 技 写真:肩取り正面打ち 四方投げ [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

(写真それぞれに、説明を入れました。ここをクリックして、左上の「スライドショウ再生」を使うと、お読みいただくことが出来ます。Click here you can look all photos.)

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石川先生の技が怖いから [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

毎週日曜日になると、私は時計ばかり気にしている。午後2時16分--白くて大きなエナメルバッグを背負い、木刀の入った紫色の袋を抱えて家を出る--

私が合気道を始めたのは小学校2年生の6月。あまりにも泣き虫で弱虫な私を見かねた母が八王子支部への入会を申し込んだ。
始めのうちは道場へ行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。何より痛い。受身がうまくできずに頭をぶつけたり、「イッキョウ」という(そのころの私には)わけのわからない技をかけられたり・・・。
あまり思い出したくないが、そのころは毎週のように泣きそうになっていた。私の泣き虫ぶりは小学校4年生のころまで続いた。

小学校5年生の春、紫帯になった私は「塾の日程の関係」で八王子支部から立川支部へと移った。実際のところ、本当に塾の日程で八王子支部に行かれなくなったのは6年生の春からで、移った理由のほとんどは「石川先生の技が怖いから」だった。
その春、私は晴れて茶帯となったが、依然として合気道は嫌いで、親がいうからやる、「やっている」のではなく「やらされている」という意識だった。

中学校に入学し、「塾の日程の関係」がなくなった私は、立川、国立と、支部を転々としていた。それほどまにで、石川先生の技が怖かったのだ。

中学1年生のとき、学校の授業で柔道をやった。自分より大柄な友達をうまく倒せるようになる、というのがとても楽しかった。人間ってこんなにすごいことができるんだ、と思った。そしてそれは合気道も同じなんだ、とも思った。

そのころからだったと思う。突然、合気道がとてつもなく楽しくなった。その柔道の授業がきっかけだったとも言えるし、中学生になって本格的に大人の部に出るようになり、型だけではない、力抜きの技に挑戦するようになって、合気道の本当の面白さにようやく気づいたからだとも言える。
中学2年生の春、3級になったのと同時に、あの怖くてたまらない石川先生のいる八王子支部へと戻ったのだ。

信じられないほど合気道が好きになった私は、中学校2年生の夏、合宿にまでに参加した。密度の濃い、とても勉強になる3日間を過ごすことができた。そして中学3年生の夏、合気道が好きになってからずっと目標としていた黒帯を、とうとういただくこととなった。

中学3年生の9月から12月までは受験の塾へ通うために八王子支部から立川支部へ移り、1月から2月までは休まざるを得なかった。しかしもうそれは「石川先生の技が怖いから」ではなかった。「やらされている」合気道は、親に止められるほど「やる」合気道になっていた。

いま、私は高校1年生だ。めまいがするほど忙しい学校、部活、塾。でも、合気道だけは譲れない。八王子支部への片道1時間半の道程もまったく苦ではない。その1時間半の先には、本当に楽しい1時間半があるからだ。

毎週日曜日になると、私は時計ばかり気にしている。午後2時16分--白くて大きなエナメルバッグを背負い、木刀の入った紫色の袋を抱えて家を出る--

八王子支部・後藤鞠奈

Aikido Rakushinkan Japan 合気道楽心館(東京・千葉・埼玉):http://aiki.jp/
Movie Blog 剣柔一体(北海道苫小牧・東京・千葉):http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3?
問合せメール:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp


タグ:子供合気道
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四教・四か条 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

    週に1回ほど中野・綾瀬・荒川など行けるところの稽古に参加している高橋です。今回二回目の登場で、前回は2008-12-18です。社会人になってから稽古回数は激減しましたが、少しずつでも上達できるように毎回意味のある稽古になるように、また、楽しみながらやるように稽古に参加しています。

     私は現在課題として三教・四教の稽古をしています。その中でも、四教に関しては、学生時代にもけっこう力を入れて取り組んだ技の一つであり、気に入っている技の一つです。先生が、相手の手首を持っているだけで、人をまるで操り人形のようにコントロールしているのを見て、すごいなというのと不思議だなと思ったので興味をもったからです。痛いというのではなく、腕が効かなくなって踵を浮かされてしまうのです。写真:http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3/e/77eb923b6e0925489934bbd0a50df1df

何ヶ月間か自由稽古の時間に、四教ばかり研究していた時期がありました。その時は、完璧にはできないなりにも、少しくらいは何かを掴んだような気がしていました。  楽心館の稽古方針を簡単に説明します。白帯の間は、合気の手の基本・体術基本技の概略の習得・剣の振り方、打ち方受け方、技の理合の基本稽古です。有段者になると、段ごとに指定された合気の手と掴み手の体得・剣の技の体得・剣の理合に則った呼吸技と体術。白帯で行ったことを、もう一度別次元の身体使いで、稽古し直します。石川先生が良く引用する言葉に「習いとは一より初めて十を知り、十より戻りて元のその一」とか。「一致の一で心楽氣和」とか。「一挙手、一刀で」とか。要するに無駄なことは省けと、仰せになっています。

   そして私は、現在有段者になってからまた白帯で行った三教・四教の稽古しているわけですが、本当にむずかしいです。まず、手の形が違うとよくいわれるのですが、どこが違うのかがまだよくわからないのです。微妙な手の形の違いによって技の効き方が全く変わってきてしまう。そして、持っているのは手首であるが、結局崩すのは、体幹の部分でなければならない。持っている接点の部分に効いているだけでは不十分で、手首・肘・肩を通って体幹を崩すといったところにまで至らなければならない。いまいちイメージができないのです。このところは剣柔一体へ理解が進まないと、見えてこないと思われます。より効率的に一点を通して相手の体幹に力を加える手の形・また、発力の方法が揃わなければならないのでしょう。なんとか身に付けたいものです。私は本格的に剣術・居合術を稽古する時期に、きていると思います。

  さて後は余談です。現在、世界的大不況です。人々が恐れ慌てる恐慌であるともいいます。一方何事もないかのように、うららかな春が到来しました。人事と自然の次元の落差を思います。しかしその人事も、自然の理に則って無駄を省いた事業者は、泰然と良い業績を発表しています。去年までの円安バブルやアメリカの過剰消費を追随しない仕事を、していたのでしょうか。とにかく無駄なことは、省いたのでしょう。石川先生の指導は入り身・転換・体の変更の基本動作。足構え。合気の手と掴み手。丹田のゆるませ方。相手の軸の崩し方。それらを確認するだけの作業です。しかしこれを繰り返すことで、実際に見方や考え方が変わってきます。技の実力も上がります。付け加えるのではなく省く作業、鱗を落とすとでもいいましょうか。そんなものです。会の運営も小人数個別指導。好況の時も不況の時も、かわりないです。これが楽心館の「一」だと思います。 

合気道楽心館Aikido Rakushinkan http://www.aiki.jp/
動画ブログ:剣柔一体 http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3
メール石川智広:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp


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一流と三流 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 

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●「一流の証」

=============

 

<八双>

メジャーで活躍するイチロー選手。

イチロー選手はメジャーリーガーのバッターの中では細身。

強打者は筋肉モリモリの人が多い。筋肉の横断面積に比例して力の出せる量が変わるので

プロティンなどを摂取し、筋肉を付ける。

松井秀樹選手もそうだが一般的なホームランバッターは球をギリギリまで

引き付けてから打つため 後足に軸を置く。

イチロー選手は振り子打法 後ろにあった軸を右足に平行移動し

球を切るようにバットに乗せてゆく。ボールを捕らえるとき前足が軸となっている。

空振りしそうな時も「フッ」と腰が緩み、手が伸びてバットの先はボールを捕らえている。

 

まるで八双の構えから手、腰、足が一体となって、相手の剣の下へ入って行く動きのようだ。

意識した瞬間ボール(相手)までの最短距離を 緩んで当てに(切りに)行く。

140kmを越える物体に向かって行きながらも、身体とバットで三角が出来ているので

軸が入り強い打球が生まれる。

 

「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 踏み出でていけば後は極楽」

 

イチロー選手の極楽 それは誰もなし得ないメジャーの大記録の数々 超一流の証

 

 

<トリプルアクセルとでんでん太鼓>

1月程前 フィギアスケートを見ていた

浅田真央選手がショートプログラムでトリプルアクセルを失敗

1回転で着地してしまった。初日ショートプログラムの結果は6位。

 浅田選手のような世界選手権を制覇している一流の人でも失敗はある。

TVの解説では、過去の成功と今回の失敗のジャンプを比較してスローで見ている

タイミングが「ほんのちょっと早い」と解説者。

ジャンプして身体の軸に巻きつくように手足をたたんで行く動作だが、

この日のジャンプは明らかに手の引付け時に力み、首が連動して手のほうへ傾く。

結果 体軸がブレ回転力が落ちてしまい、身体が開いてしまった。

 

成功時はその開いていた手足を横に引き付ける力が

全く無駄なく縦への推力となり、しかも手足に軸が乗り一体となっている。

 

「左右に廻すでんでん太鼓のように、軸は傾かない。」

 

フリープログラムで浅田選手は失敗を修正しトップ。

脅威の追い上げで総合3位だった。一流の証。

 

 

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●「三流の証」

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合気挙げの稽古。

先生に押さえられ 全く動けない。

 

 日本は 刀を使う時代が長く いつか衰える筋力に頼らず、

生活の中で培う筋力を効率良く使う身体操法で 速さ、強さ を身に付けていた。

 

稽古ではその身体使い(=手を持ち上げず、丹田からの力を伝える)をしたいのだが

足、腰は凍ついてしまい、手で持ち上げる動作になってしまう。

しかしそれは 腕を腕力だけで持ち上げよう(持ち上げたい)とする気持ちの表れ、

最悪の形=駄目な稽古だ。 

 

「すぐに出来ないのは承知の上。駄目な稽古ではなく ましな稽古を」

 

身体の疲れを理由に「繋がる感覚」「力ではない稽古」を忘れていては 

心技体どれも出来なくて当たり前 三流の証。

 

 道はまだまだ長い 心技体どれも怠らず 精進 精進。 

 

国立 相野 二回目の登場でした。

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懸腕直筆と合氣の手(一挙手) [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 私は電子機器のメーカの技術職をしています。楽心館には一年通っていますが、書道は長く稽古して師範免許を持っている者です。合氣修錬で書道家として感じたところを、書いてみたいと思います。
 書道には「懸腕直筆」という運筆法があります。子供の頃、書道の先生に教えていただいて真似をしたのですが、すぐに「書きにくい」と文句を言い、そう言うのを見越していたかのように先生に笑われた覚えがあります。筆は常に垂直に持ち、脇をあけます。肘は直角に近くなると思います。そして肘を机につけてはいけません。
 書きにくいのは、鉛筆書きの延長で書こうとするからです。鉛筆書きでは、手首または肘で字を書いていると思います。「懸腕直筆」ですと、手首や肘の稼動で字を書くのは難しいので、冒頭の「書きにくい」という文句が出てくるわけです。
 話は変わって合氣の手(一挙手)です。楽心館に入門すると初歩の段階から、一挙手で入り身になって、相手を崩す運動を学びます。この運動の動きを、見た目で真似しようとしてもうまくいきません。腕ずくでやろうとすると、とてもぎこちない動きになります。または真似になりません。「一挙手の入り身の手」は、単なる手の運動ではなく全身運動です。この体の使い方が今まで自然にしてきた身体の使い方とは違うからです。日常生活上にない動力の生み出し方です。
 そういえば、書道の先生が「懸腕直筆」のお話をするとき、「書道は体で書くもの」とも言われました。ということは合氣の手(一挙手)の原理が、今のままではひたすら書きにくい「懸腕直筆」の動力源にならないだろうかと思ったのは稽古の正解率が上がって来た頃です。だって、「懸腕直筆」が書きにくい最大の要因は、この型では手首も肘も殺されていて、今までのあたりまえの意識で手を動かそうとしても、筆がうまく動かせないことです。
 というわけで、私の中の「一挙手の入り身の手」の理解度という超重要ポイントは無視して、この方向に進んじゃうことにしました。具体的には、「懸腕直筆」の型をとり、筆先の接点をコントロールできる範囲で、腕全体を自然に脱力して落とします。肩から先は、余計な動きをしないように、腕を動かそうとする意識は捨て、動力を伝えるだけの棒だと思うようにします。あとは「一挙手の入り身の手」の要領(といっても想像なんですが!)で筆を動かします。
結果は以下の2点です。
 1、自分の体に近いエリアが書きやすくなったこと
 2、線質が改善されたこと
もちろん、本当に関係あるのか?そもそも稽古の理解度という超重要ポイントを無視した点はどうなのか?といったことも忘れてはいけないです。書き方を元に戻せば、再度この点が改悪されれば関係性が間違いないことは確かめられますが、せっかく腕が上がったのでそれはイヤです。今年の展覧会は、この方向で攻めてみようと思います。
 ところで、宮本武蔵の描いた枝の先っぽに鳥がとまっている「枯木鳴鵙図」http://ichirakusai.blog.so-net.ne.jp/2007-12-11で、もっとも再現が難しいのは、中央でスッと伸びる枝なんだそうです。昔、たまたま見たテレビで、水墨画の先生がいってました。武蔵ならではの線質だとかいっていました。また、「五輪書」を読んでみるかぎりでは、宮本武蔵が力ずくや生来の身体能力だけで刀を振り回すのが得意だった人というわけでもないようです。私に審美眼はないですし、美術品の価値もわかりませんので事の信憑性は知りません。そのテレビの先生のこじつけかもしれません。ですが、少なくとも書画の技術と武道の技術が、宮本武蔵個人の中で、何らかの反応をみても不思議ではないと思います。私にとって楽心館での稽古が面白い理由のひとつです。

                                           千葉本部道場 小堀寛和

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天地人 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

  世界は複雑系。決して単純系ではない。政治、経済、自然と、無数の因子の影響力で顕在化するのだろう。
  しかし視点の置き方次第で、見え方は単純系とも言える。今、話題の不況。コンドラチェフ、ジュグラー、チキン。景気は、大きな周期のトレンド波の中での景気循環でしかない。個々人がじたばたして、どうなるでもない。
  トレンドの波に乗るのは大切。時には循環を追いかけるもよし。DSC01288.JPG
  視点を近くに置くも良い。遠くに置くはもっと大切。
  真理は平凡なものだ。

  逆説的にいえば、この単純が分からないがゆえに、世界は複雑系であるのかも知れない。
  稽古でも、天地人ただ突っ立つことの大切が分からぬために、皆様稽古を複雑にしている。

  今日は午前から午後にかけて池袋、練馬の稽古までに空いた時間を、出水先生のお宅を訪問した。行ったら突然、「今日は書初め」と言われた。

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タグ:天地人
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目付 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 私の仕事で会う、老夫人があります。顧客と言うのも、当たらない。老夫人は私を敬って「先生」と、呼んで下さる。しかしそれは尊称よりも、呼称の使い方に近いと思います。だから老婦人は、弟子と言うでもない。だから、仕事で定期的に会う、としか言えない。この方は年齢なりに、目の病気を患っていました。

 「
観見二ツの見様」とは、宮本武蔵の目付けのこと。心眼を強く、肉眼を弱めにて、二眼でみること。話題の老婦人は、この観見二ツの見様」の境地に達していたのです。それは何故か?

兵法三十五箇条    宮本武蔵35の⑥ 一 目付の事目を付ると云所、昔は色々在ることなれ共、今伝る処の目付は、大体顔に付るなり。目のおさめ様は、常の目よりもすこし細き様にして、うらやかに見る也。目の玉を不動(うごかさず)、敵合近く共、いか程も、遠く見る目也。其目にて見れば、敵のわざは不及申(もうすにおよばず)、左右両脇迄も見ゆる也、観見二ツの見様、観の目つよく、見の目よはく見るべし。若(もし)又敵に知らすると云う目在り。意は目に付、心は不付物也(ものにつかざるなり)。能々吟味有べし。(この中では観を心眼、見を肉眼としている) 

  答えは、白内障だからです。光が遮られ、薄ぼんやりとしか見えない。そのぶん、想像力と感性を研ぎ澄まして、自然と心眼で観るようにならざるをえなかった。
  あまりきまじめに、読まないで下さい。半分冗談ですから。

  最近この老夫人は、白内障の手術を、お受けになりました。もちろん手術は成功。その結果、観見二眼の境地は、何処に消えてしまいました。「自分の手を見てがっかり。こんなに皺(しわ)と染みだらけなんて、思ってもいなかった」と、仰せになりました。私は「現代の浦島太郎さんに、なられたご様子ですね?」と応じて、二人愉しく笑いました。心の目で観たご自身の手は、何歳頃のイメージのままに留まっていたのでしょう。光を取り戻した目で鏡の前に立った時、玉手箱を開けた浦島さんと、同じ心境だったのかもしれません。
冗談はさておき武の場において、仮に「心眼弱く、肉眼強く」だとしたらどうでしょう。敵の身体的動きの発動に対応せざるを得ず、我は悪い意味での後手に回ります。「心眼を強く、肉眼を弱く」すると、敵の心意の起こりに対応する事ができ、我は敵の身体的動きの未発のうちに、先を取る事ができます。余裕を持って後の先を取る事も自由です。心から意。意から氣。氣から身体へ。動きの発動は伝わっていきます。心意の起こりを感(観)じるのは心眼です。氣から身体へを見るのが肉眼です。そこを武蔵は「観見二ツの見様、観の目つよく、見の目よはく見るべし」としているだと思います。

 私たちのテキストの名称を、意心形心としているのは、意と形の一致を唱えたものですが、今日の話も参考になった事と思います。ではまた。DSC01225.JPG

 

  このお宅に伺うようになって、もう18年が過ぎました。会話が終わると、こうして庭を見ながらお茶をいただきます。この湯飲みと茶たくも、18年間使わせていただいてます。不思議と私の手に、馴染んでしまいました。

合気道楽心館 http://www.aiki.jp/
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美しき [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

美しき人。様々な側面がある。造形的に。健康的に。そして時には幸福と感謝に満ち溢れて。

「今後のお稽古はどうしたらよいか?先生にお聞きしたいと思いまして。」と、入会して間もない女性が言う。

私は「もちろんお辞めになってください!」と即答した。今日話題の美しき人とは、この女性のこと。眸は輝く。頬の筋肉は左右に開いて、唇にハンモックを吊したような曲線を与えている。幸福に満ち溢れて、もうどうしてよいのかわからないという様子。産婦人科から直行便で、蘇我アリオの合気道講座へ知らせに来てくださったのだ。

私:「ご懐妊、本当におめでとうございます!」

Mさん:「ありがとうございます。合気道の稽古のおかげです。一年半経ったら、また来たいと思います」

私:「それは無理ですよ?」

Mさん:「えっ?どうしてですか?」

私:「これから第二子、第三子と続きますから」

Mさん「だとしたら願ってもないこと。嬉しいわ!」
また笑顔が溢れ出る。どうにも止まらない、山本リンダのコマッチャウナ状態。

Mさんの話では、結婚して5年間授からなかったので、諦めていたそうな。それが稽古開始したら授かったので、合気道のおかげだと仰せになる。日にちを逆算すると、稽古開始と一致するのだそうだ。
「それは関係ありませんよ!」と、私の答え。

我々がしていることは、正中線と左右の半身の育成。足腰丹田の脱力と骨盤を主体とした身体使い。ただそれだけ。これで懐妊できるのなら医者はいらない。

ところがMさんのご主人は、医者だったのだ。
ここで私の三段論法は崩れ落ちた。

Mさんの私を見る目は、まぶしいほどに輝いていた。私もコマッチャウナ状態。

でもねMさん、これまでの5年は今日のためと思って、コウノトリとご主人に感謝してください。この18日のMさん、とても美しかった!お幸せに!


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将棋 2 技芸と人間 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

  この将棋盤は、Sさんから贈られた。「息子さんと使ってください。私は使いませんから」と、Sさんは言った。届いた盤は、丁寧に梱包されていた。それを見て私が想像したことを、書いてみます。

 Sさんはある時期、相当に将棋をやっていたと思います。競い合う相手もあったと思います。
しかし察するところ、何かのご事情でその相手を失ったのだろう。そしてSさんは気づいた。「自分は何となく将棋を楽しんでいた。しかしその大半は、将棋の技巧よりも、相手の考えたり困った顔の反応、やりとりを楽しんでいたのだ。将棋相手を失って、初めてそのことに気づいた。だからもう、将棋をやる理由を失った」。そんなことではないだろうか。

  さらに翻って、自分の日常を考えてみる。合気道を楽しむと言った場合、その技芸を深めること。その思想や表現を楽しむこと。いろいろだろう。我々楽心館のあり方としては、合気の技法を深めることに傾斜している。技芸は大きな目的であるが、それが唯一の目的にはなりえない。なぜなら技芸のこちらに自分がいて、技芸のあちらに相手がある。これは現在のこと。
 技芸を伝えてくださる方々があって、技芸を伝えてゆく人々がある。これは過去未来のこと。こうして技芸は、過去現在未来にわたって、人と人を繋いでいる。

 自己形成と社会形成があって、人間形成。これは明解な定義。将棋の技巧だけを深めるのであれば、パソコンでソフトウェアを相手にしていればいい。しかし人間は、生身の人間に誉められ癒されてはじめて、相互作用の中で幸福を感じるものだと思う。

  技芸自体の深さの楽しみがある。技芸によって繋がる人の和の楽しみもある。自己形成と社会形成の両輪が大切。しかしよいことばかりでもないのが人間で複雑。

  以前に引用した道元禅師の道歌(以前はここhttp://blog.so-net.ne.jp/ichirakusai/2008-01-02
「劫初より 作り営む 殿堂に 我も黄金(ふがね)の 釘一つ打つ」

  禅の門外漢だが、技芸の立場から自分なりの解釈をしてみます。
「劫初より 作り営む」とは、祖師方によって伝えられてきた仏祖の慧妙。これは過去のこと。

「殿堂に」とは、現在(道元の時代)の仏教や教団。

「我も黄金の 釘一つ打つ」とは、自分も未来へ伝える役割を果たしたい。しかしそれは小さくとも、永遠に残る黄金である。という。凄まじい気概と迫力が感じられる。

 さて私は技芸の過去現在未来の中で、どうしよう。

「我も鋼(はがね)の 釘一つ打つ」。

  そう言える身にもなりたいものだ。末筆ながら将棋をはじめとして技芸と人間について考えさせてくれたSさんに、御礼を申し上げます。Sさん稽古日誌はここ。http://www.aiki.jp/tokyo/nakano/keiko.html

合気道楽心館 http://www.aiki.jp/
動画ブログ:剣柔一体 http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3
メールアドレス:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp


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稽古納めー道への入り口 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 今週は、今年の稽古納めが続きます。稽古始めと稽古納め、両方とも大切ですが、あえて言えばどちらが大切だと思いますか?稽古の王道からすると、稽古納めのほうが大切だと思います。

 納めといえば、「納刀」(のうとう)の言葉が思い浮かびます。稽古では抜き付けより納刀が、高度であるといいます。これには、さまざまの意味や説明がありましょう。あえて一ついえば、納めたままに構えていることの持続が、難しいでしょう。これが出来ていれば剣を抜く必要さえなくなるからです。
 同様に礼法は、稽古開始と稽古終了のどちらが大切で難しいかと問う場合も、稽古終了のほうが大切でしょう。稽古の場から離れても尚、稽古の心身を持続することのほうが難しいからです。これが出来ていれば、物理的な稽古をしていなくても、武道の技量も人として生きる道も、両輪として向上できる可能性があります。

 これを日常で実践するとどうでしょう。言葉を発することは、それなりに考えも想いもありましょう。しかし一度発した言葉、もし仮に悪い意味での感情や意図が入ってしまっていた場合、それをきちんと納めることは困難になります。さらに今日、デジタル・インターネットの時代、ペンを握ってではなくキーボートを叩いての表現となると、本能のままにその人のダークな部分が勢い出てしまうものです。ところがデジタルなものほど記録に確実に残るのですから、困ったものです。
 出してしまうことは簡単ですが、出さない努力・納める工夫のほうが困難で高度です。古来これを日本では、一言で「慮る(おもんばかる)」といいました。今日、久しく忘れられた言葉です。古人は一度出したものは、けっして消すことがでいないことを良く知っていたのです。デジタルの時代になった今日こそ、再認識すべきことだと思います。

 さらに人間、生があって死がある。どちらが大切で難しいかと問う場合も、死のほうが大切でしょうか?「棺を覆いて論定まる」といいますが、私は死んだことありませんし、そんなこと分かりません。それが答えです。稽古の王道ではそれをどう説いているかの話に、留めましょう。それは何度も言っているこの極意歌です。「斬り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ」と。「太刀の下こそ」とは、この過ぎ行く一刻一刻が「地獄」そのもの。そこへ「踏み込んでみよ」とか「身を捨て行けば」、「後は極楽」と。この生の日々こそが死であり地獄であり、そこに入り身になって身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ極楽もあり。動画はここ
http://jp.youtube.com/watch?v=c_F6_CewiFw
 ここに道への入り口があると、私は思います。稽古納めにあたって各道場でこんな話を、それぞれ変えながらさせていただきました。

合気道楽心館:http://aiki.jp/
動画ブログ:http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3?
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技と心 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

  ラジオで聞いた、良い話。今は画家として成功した人の、子供時代のこと。お父さんは青年期に小磯良平を信奉する画家志望であったこともあって、6ー7才の頃、絵の家庭教師をつけられた。
  家庭教師は最初の日、一つのリンゴを描かせた。次の日も、リンゴを描かせた。そして次の日も。その次の日も。リンゴを描かせた。少年は飛行機とかを描きたかった。
 しかし家庭教師は、リンゴを描かせた。ある日は「みてごらん?」。ある日は「もっと良く、みてごらん!」と言うだけだった。
 もう今日で我慢の限界点という日、少年は気づいた。光と影があることに。パステルを使って、少年は陰影を描いた。それをみた家庭教師は、「よく出来たねー~」と、誉めてくれた。このご褒美に、動物園に連れて行ってくれた。
  そこでキリンを描くことになった。家庭教師は「キリンの手前にある木も描いてごらん?」と言った。少年はここで、木とキリンの対比で、遠近法を学んだ。
  画家は現在、その家庭教師の名も知らず、と言った。

 私はここに、はたと思う。芸術的ものをみてゆくとは、どんなことかと。技術面で高まることで、もののみかたが高まれば、技術面を追求する意味が確かになる。

  私が書道の師に学ぶことは多い。技術面はもちろんのこと、審美眼についてこそ。見た目の美しさは否定なさる。「うーん、味があるわね」、この言葉を引き出したら、その日の稽古は成功。細い線を引くとする。上手に細く書いてもダメ!そこに力が入っていなければ、「もうちょっとね!」となる。「自分の字になっている?自然体で!」とは、よく聴く言葉。

 結果最後は何事も、「自分とは何か?」が問われるのではないだろうか。かといって魂の言葉を乱用するでもなく。わびさびを絶対視するでもなく。ポップアートを楽しみつつ。何にしても内なる美の発露だと思う。

  さてここでクイズ。下の三つのどれが佐々木泰南先生の字、出水先生の字、私の字?簡単だね。ヒントは自然体と力と味の差。明快だね、比べてしまうと。



  時に我々は武道を学ばさせていただいている。他に芸道とい呼び方もある。これらを道武とか道芸と呼ぶことはない。なぜか?
  道は目的として大切ではあっても、それ自体が手段にまで成り代わることは、ない。武を忘れた武道、芸を忘れた芸道も成り立ち得ない。技を追求する中に、視点の高まりがあるかもしれない。道に至る可能性はさらに先のこと。だと、私は思う。合気道という時も同じこと。

  精進、精進。だな。

合気道楽心館:http://aiki.jp/
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真の字と稽古 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

  「真」の字の起源は、古代中国の甲骨文字。上の十と下の首の逆さまによって描かれる、象形文字に分類される。この字の成り立ちをみると、真理についてヒントを得られるような気がする。
http://blog.so-net.ne.jp/ichirakusai/2007-11-23

  私たちが生活の中で、これが真実、事実と判断したとする。人の判断である限り、主観を排除することはできない。しかもその主観が、清(せい)であったり濁(だく)であったりする。それをまた第三者に伝えるとなると、その時と場所と方法その受け取る人の主観の程度によっては、善意で白と言ったことが、憎悪の黒と伝わっていることもありうる。誰でもこうした体験は大なり小なり、あるであろう。これが大であった場合、なかなかきつい。

 こうした時は、どうしたものであろう。真実をデホォルメした主観が適度に消えるのを待つか、積極的に消す努力をする。時に後者が、火に油を注ぐことにもなる。こじれた時は、前者がよいのではないだろうか。

  さて先の真の字は象形文字、この話に戻る。上の十とは、木の枝。そこへ切り取られた人間の首を逆さに吊されている。この二つを合わせたものが真の字。この意味することは、何であろう。刑死した人の首がさらされたのか?神に生け贄として捧げられたものなのか?私には分からない。どちらでもよいこと。同じことを意味すると思う。

 人が事象を主観という心のレンズを通してみているのだから、客観的というものにも誤差はある。しかしそれも程度の差。さらされた首は、主観を排除した先に真理があるという意味ではないかと思えてならない。何が清で何が濁であるか、しょせん個々の人間には分からないこと。人間には分からない神様だけがご存じ、という程でもない。評価はずっと後になって定まること。

  時に私は、中級者向けテキストの表題を真理平凡とした。真理そのものはあるがままなのに、一方の真理をみる人間の主観と身体使いの不自然さが災いする。この心と身体の二つの削ぎ落としが、稽古といえるかもしれない。植芝合気道開祖が、合気は禊ぎ祓い、と表現された趣旨もここにあるのではなかろうか。
http://aiki.jp/honbu/aikido/uyeshiba.html
これも評価は、ずっと後になって定まることと思う。


合気道楽心館の歩む道 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

自然な一瞬の色の必要な光を選んで、レンズに通せば写真。

自然な生(せい)の一場面の心情を、言葉に写せば俳句。

自然なバランスの中で均等でない変化を、紙に表せば書道の筆のあや。


今日は佐々木泰南先生の臨書の稽古を、させていただいた。(意心形心P48)
以前のものはこちら アドレス
http://blog.so-net.ne.jp/ichirakusai/archive/20070607
手本が違うと、こんなに変化するのが面白い。


「先生は気まぐれだから」と、泰南先生のお人柄と字を懐かしんで手本を眺める出水先生。右側に「凡」、左側に「要」と行書体が見える。木漏れ日が差して、手本にエネルギーが注がれていく。

自然に流れる一風景の雑多な要素を、潔く切り捨て身体動作に移せば、一致の一で心楽氣和。相手の力を無駄なく導く武と、心のフィルターを通した自然がそこにある。
そして、今も昔も変わらぬ日本人本来の身体使いと剣の理合こそが、合気というかくも柔らかい武道を生み出した違いないとの思いを強くさせられる。
これが合気道楽心館の美しさ、歩む道。

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術と道 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

術と道については、すでに述べたことがある。
http://www.aiki.jp/ishikawa/message/message-jyutsutomichi.htm
武術と武道としても、大局的に区別はない。
「基本的に結果が全てであるが、誤った過程と予想外の結果が重要な場合も多々ある」、としか言いようがない。

結果が出ない時は、過程の誤りを検証する。
結果が正しく出た時も、不合理な過程がなかったか検証する。
過程が正しくとも結果が出ないこともある。ここに新発見がないか、検証する。
術と道、やる作業は同じで、比重の置き方の差に過ぎない。

世には本流だ末流だと、「武術と武道」それぞれの中で区別を付けたがるものだ。謙遜で自ら「末流です」と言うならまだしも、「あれは末流」などと言うは傲慢かもしれない。

ある場にて、立派な指導者を見かけた話をしよう。

稽古中、師範室へ戻るとタオルを持ってきた。
帰ってあるお子さんの足元を、拭き取った。
タオルをお子さんの手に持たせると、退場させた。
お子さんは静かに退場し、道場の隅へ行く。
その時やっと、私は何が起きたかを把握した。

指導者は話し始めた。
「冬場、稽古に夢中になっていて、我慢しきれずにオシッコを漏らす。そのことをバカにしてはならない。
たいして出したくもないのに、チョコチョコとトイレに行く奴よりはましだ。
但し自分から「トイレに行く」と、言えれば立派だった。
さらり言えば、稽古の始まる前にトイレに行ければ、もっと立派だった。」

やがてはお子さんは、自分のズボンに履き替えて登場。最後までやり通し、帰って行った。小学2年生程の男の子。それを見ていた私は涙腺が緩みきったまま、「みんなもっと足腰を緩めないと!駄目じゃないか!」と、声を荒げた。

この指導者の団体は、このジャンルでは支流の支流。ピョンピョン飛び跳ねることも多い格闘術。日本の伝統的身体使いからは、逸脱しているかもしれない。
しかし自分の師範を信じ、精進し、生き方に活用している。
ここに道がある。
道元禅師は「随所に主となれば立処、皆真」と喝破している。

武術の教えに「初歩の一本目、初手が極意」とある。これは技を超えて、人の道そのもののこと。
自分は稽古することで、衣食住を得ている。もしほんとうに稽古しているのなら、毎日反省の機会を得ているはずであった。
日々何かが起きる日常の中で、自分はどれ程のことが出来ているだろう。あの指導者は私より、15才は若かった。

自分は恥ずかしい。
だから武術と武道に、区別はないと思う。

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「かた」文化 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

「まね」と「かた」の大切さを、考えたいと思います。

そもそもここで「まね」としたのは、学ぶ行為を、前提とします。「まなぶ」の語源は、「まねぶ」です。古人はこの言葉に、真似という漢字をあてました。

学びの初歩の段階では、真に似せようとすることは、大切です。この困難さに行き着くことで、学びが次の段階へ上がります。

一言に真似るとはいっても、簡単なことではありません。
例えば、ある書道の手本を横に置いて、臨書します。いくら似せて書いても非なるも。線一本、こちらとあちらは別物です。武における一挙動の動作(注)においても、同じことが言えます。こちらは型、手本は形。形とは身形(みなり)という時の形のこと。型が錬られて身体化したものが、形です。
真に似せようとすることで、型と形の落差を知るのです。

ではその形を得るには、どうしたら良いのでしょう。型をみるだけでなく身形、身体の使い方をみなければなりません。別の言い方をすれば、型と形の間には守破離があります。型を守り抜いて身体を錬って、身体化して型を破って、形化して型から離れます。この「かた」を通した学びを、「真行草」三段の習いといいます。

ですから真似るの中に、守破離と形化の過程がすべて入っている、そう考えると「まね」価値が高くなります。


一楽斎の庭では金木犀が満開です。香が室内に流れています。

(注)武における一挙動 例として剣を動画・剣柔一体に掲載しました。http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3/e/5ac66ba0201d6b36f59431b2396ad449

一挙動 例として剣を動画・剣柔一体に掲載しました。
http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3/e/d97912da424570d87c5ee02f6e8abcad

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武と農 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

「天高く馬肥ゆる秋、肥満は万病の元」。

ラジオの司会者が、番組のスタートにあわせてオヤジギャグを話し出した。季節に合わせて、笑いをとろうとしたのだろう。10月5日の千葉市本部の稽古へ向かう途中のこと。オヤジギャグには、ダンボの耳の私。
目くじらを立てて言うほどのことではないが、言葉としては現代的な誤用の一つ。
そして偶然だけれども、このことを考えていたら、以前から疑問に思っていたことが紐解けたので報告したい。

まず言葉の現代的誤用とは、よく時候に使われる「天高く馬肥ゆる秋」の使い方のこと。これは本来は、「戦(いくさ)の季節が来たから、皆さん気持ちを引き締めて備えなさい」という警句です。

昔は軍隊といっても大半は農民。農繁期は戦争を避け、農閑期が好まれました。馬肥ゆる秋とはまさしくそのこと。収穫も終わり、農耕で重労働だった馬にも充分の餌と休息を与えた。これを「馬肥ゆる」とは、人も馬も戦争に行く準備ができている。北方の匈奴たちが城壁を乗り越えて、攻めて来るぞ!
この事情は中国も日本も、同じだったのです。

次に紐解けた疑問について、話したいと思います。この写真をごらんあれ。

これは国宝・赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)の竹雀文返金具(たけすずめふきかえしかなぐ)
14世紀(鎌倉~南北朝時代)、奈良春日大社蔵

写真のアップは、これは兜の吹き返しに施された飾り金具で、左右の吹き返しの他各所に竹を中心に桐・藤・菊・雀が飛んでいる大型の金具が据えられている。何故?兜に雀なのか?これが以前から疑問だったのです。

この金具の雀、よく見ると鋭い目と嘴をもている。まるで鷹のようでもある。これで謎が解けた!

「馬肥ゆる」が、戦の準備完了を意味すると、先ほど申しましたね。私の想像に過ぎませんが、雀とはお米の収穫や農民の象徴なのではないか。米粒をついばむ雀が、肥えて、ますます戦闘化した姿を描いているのではないだろうか?
ある武将が、農耕の豊作と郷士(半農半士の人々のこと)武勇・戦の勝利を祈願して、春日大社に奉納したのがこの鎧ではないか?そう想像してみたのです。

参考)武道の撞木足(しゅもくあし)も、農民の鋤・鍬を扱う足構えに同じ。関連記事を動画ブログ・心楽氣和http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3/e/5f776863286637794de2d42a0c60cb28
に書いてみました。

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