大東流と合気道 [武道:剣柔一体(気剣体)]
武術と武道、様々な定義はあるだろう。結果と過程から考えてみる。
武術は結果が全てであって、勝が得られなければ過程の大半が無価値になる世界。
武道は勝ちにゆくが、その過程が様式と精神において美しくなければならない。その美しさは結果が出た後も、生き方全般も、求められる。それを礼儀正しくという場合が多い。
しかしこのような修辞的な区別には無理があり、重要なことではない。
武術が全てであった時代でも、仏教や論語を深く学んだ方々はあった。今日の武道と称する世界にあっても、名利を求める人は多い。
だから修辞的区別に捕らわれることは、現実世界に目を瞑るに等しい。
さて話題が大東流と合気道の定義となれば、どうだろう。術と道の定義に止まらず、武田惣角先生と植芝盛平先生の個性に対するより好き嫌いの感情が入って、大東流好きの合気道嫌い、合気道好きの大東流嫌いは多い。両方を学ばせていただいている私はかねてより、保存、活用、創造と分けて考えればよいと思っている。
では私は、大東流「家」なのか?合気道「家」なのか?
今の私には、どうでもよいこと。武の旅の、どこに居るかの問題に過ぎない。たとえば船に乗るとしよう。川の流れに乗っている。河口に浮かんでいる。海を航海している。いろいろだ。
合気道という川から船に乗る人がある。大東流という川から船に乗る人がある。中には河口まで来れない人がある。海を航海できる人もある。
川の流れはそれぞれに違うが、海に流れ込めば一つの世界。
「武は一つ」。そういう言葉を聞いたことがある。一つとは何だろうか?合気という船旅が、河口に至って見えるもの。剣の理合い、手の技法と崩しの術。これを大東流山本角義派では剣柔一体といい、合気道では△○□という。
武の船旅が海へ出れば、術と道も。心と身体も。意と形も一つ。
武の旅は 一致の一で 心楽氣和
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