親子弟子は、使い物にならない [家族]
親子弟子
古来、「親子弟子は、使い物にならない」という。
なぜでしょう?
「親子関係のままに師弟関係では、稽古にならない」ということだと思います。
親子関係は、愛情を「与え・手を尽くす関係」です。
かたや師弟関係は、同じ愛情でも、「奪い・そぎ落とし・本人の気づきを待つ関係」です。
親子関係と師弟関係は、未熟な内は同時成立しない。親子関係のままに、師弟関係では?師弟関係を親子関係に持ち込めば?両方とも破綻します。
この区別を経験しない親子弟子は、使い物にならないと思います。矛盾を、人生経験を経ることで、自分の中で同一化するには、青春時代を駆け抜けるまで待たなければならないでしょう。
門前の小僧
「門前の小僧習わぬ経を読む」というように、環境に置かれることによる学びは、有益です。しかしそれだけでは、不十分です。
親子は別人格なので、息子なりに「我が道を行く」という気概を持たせなければなりません。親を否定し、自分の可能性を伸ばすために格闘する時期を、持たせるべきだと思います。
本人の人生目標と武道の稽古に、接点あれば、自分の意志で稽古すればいい。接点なければ、「我が道を行く」でいい。
本人が気づくまで、待つしかない。
私が幼い頃、母は買い物を言いつけると、つぶやきました。
「可愛い子には、旅をさせろ」。
私が急いでいると、つぶやきました。
「急がば回れ」。
だから今は、息子の指導に、最初から手を出すことはしない。
古参に預ける
写真は千葉市武道館の居合術・棒術の稽古風景。私は息子に「古川さんに、教えていただきなさい」という。
体術でも、こうして古参の指導員に、稽古をつけていただく。
私が最初から、手解きすることはない。
息子は、どう思うでしょうか?
急がば回れ
息子にすれば、「自分は物心ついた頃から稽古している」と思うでしょう。確かに軽い趣味で通っているお稽古人様より、優っている技量です。
ところが、目的意識をもって考える稽古をしているお稽古人様、古参指導員には、遥かに息子は至らないことを体験します。
ここで「自分に足らないことは何だろう?このままでは駄目だ!」と奮起するか、「しょうがないな?」で済ますか、ここに関門あります。
そこで、私が「どれどれ、何やっているんだい?こんなこと?」と、技を体験させてやる。
そこで息子は「うーん!先生はさらに違うんだ!」と唸るのを、私はくるりと向けた背中で聞く。
息子はこの関門を、乗り越えられるでしょうか?それとも「我が道を行くでしょうか?」
自分探しの旅は、まだまだ継続中です。
待ってるぞ!
東京では合気会の合気道学校というものがあるそうですが、基本などはそちらに預けられたりしたのでしょうか?
職業であれ道であれ、親子である故の甘えはよくないと思いますが、親子であればこその遠慮のない厳しさもあるのではないかと思います。
親子弟子がよくないなら、戦国末期の柳生一門はどうなんだという疑問もあります。
by モカモコパパ (2014-09-05 11:05)