SSブログ

真の字と稽古 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

  「真」の字の起源は、古代中国の甲骨文字。上の十と下の首の逆さまによって描かれる、象形文字に分類される。この字の成り立ちをみると、真理についてヒントを得られるような気がする。
http://blog.so-net.ne.jp/ichirakusai/2007-11-23

  私たちが生活の中で、これが真実、事実と判断したとする。人の判断である限り、主観を排除することはできない。しかもその主観が、清(せい)であったり濁(だく)であったりする。それをまた第三者に伝えるとなると、その時と場所と方法その受け取る人の主観の程度によっては、善意で白と言ったことが、憎悪の黒と伝わっていることもありうる。誰でもこうした体験は大なり小なり、あるであろう。これが大であった場合、なかなかきつい。

 こうした時は、どうしたものであろう。真実をデホォルメした主観が適度に消えるのを待つか、積極的に消す努力をする。時に後者が、火に油を注ぐことにもなる。こじれた時は、前者がよいのではないだろうか。

  さて先の真の字は象形文字、この話に戻る。上の十とは、木の枝。そこへ切り取られた人間の首を逆さに吊されている。この二つを合わせたものが真の字。この意味することは、何であろう。刑死した人の首がさらされたのか?神に生け贄として捧げられたものなのか?私には分からない。どちらでもよいこと。同じことを意味すると思う。

 人が事象を主観という心のレンズを通してみているのだから、客観的というものにも誤差はある。しかしそれも程度の差。さらされた首は、主観を排除した先に真理があるという意味ではないかと思えてならない。何が清で何が濁であるか、しょせん個々の人間には分からないこと。人間には分からない神様だけがご存じ、という程でもない。評価はずっと後になって定まること。

  時に私は、中級者向けテキストの表題を真理平凡とした。真理そのものはあるがままなのに、一方の真理をみる人間の主観と身体使いの不自然さが災いする。この心と身体の二つの削ぎ落としが、稽古といえるかもしれない。植芝合気道開祖が、合気は禊ぎ祓い、と表現された趣旨もここにあるのではなかろうか。
http://aiki.jp/honbu/aikido/uyeshiba.html
これも評価は、ずっと後になって定まることと思う。


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0