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稽古納めー道への入り口 [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 今週は、今年の稽古納めが続きます。稽古始めと稽古納め、両方とも大切ですが、あえて言えばどちらが大切だと思いますか?稽古の王道からすると、稽古納めのほうが大切だと思います。

 納めといえば、「納刀」(のうとう)の言葉が思い浮かびます。稽古では抜き付けより納刀が、高度であるといいます。これには、さまざまの意味や説明がありましょう。あえて一ついえば、納めたままに構えていることの持続が、難しいでしょう。これが出来ていれば剣を抜く必要さえなくなるからです。
 同様に礼法は、稽古開始と稽古終了のどちらが大切で難しいかと問う場合も、稽古終了のほうが大切でしょう。稽古の場から離れても尚、稽古の心身を持続することのほうが難しいからです。これが出来ていれば、物理的な稽古をしていなくても、武道の技量も人として生きる道も、両輪として向上できる可能性があります。

 これを日常で実践するとどうでしょう。言葉を発することは、それなりに考えも想いもありましょう。しかし一度発した言葉、もし仮に悪い意味での感情や意図が入ってしまっていた場合、それをきちんと納めることは困難になります。さらに今日、デジタル・インターネットの時代、ペンを握ってではなくキーボートを叩いての表現となると、本能のままにその人のダークな部分が勢い出てしまうものです。ところがデジタルなものほど記録に確実に残るのですから、困ったものです。
 出してしまうことは簡単ですが、出さない努力・納める工夫のほうが困難で高度です。古来これを日本では、一言で「慮る(おもんばかる)」といいました。今日、久しく忘れられた言葉です。古人は一度出したものは、けっして消すことがでいないことを良く知っていたのです。デジタルの時代になった今日こそ、再認識すべきことだと思います。

 さらに人間、生があって死がある。どちらが大切で難しいかと問う場合も、死のほうが大切でしょうか?「棺を覆いて論定まる」といいますが、私は死んだことありませんし、そんなこと分かりません。それが答えです。稽古の王道ではそれをどう説いているかの話に、留めましょう。それは何度も言っているこの極意歌です。「斬り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ」と。「太刀の下こそ」とは、この過ぎ行く一刻一刻が「地獄」そのもの。そこへ「踏み込んでみよ」とか「身を捨て行けば」、「後は極楽」と。この生の日々こそが死であり地獄であり、そこに入り身になって身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ極楽もあり。動画はここ
http://jp.youtube.com/watch?v=c_F6_CewiFw
 ここに道への入り口があると、私は思います。稽古納めにあたって各道場でこんな話を、それぞれ変えながらさせていただきました。

合気道楽心館:http://aiki.jp/
動画ブログ:http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3?
問合せメール:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp


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