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武と農2 [素心]

文芸春秋(2008.5)に「織田信長 改革と破壊と」と題して、境屋太一・大和田哲男・磯田道史・本郷和人の皆さんの対談が掲載された。
とても参考になるので、紹介させていただきたい。

大転換期の天才政治家
日本史上で古い体制を完全に破壊し、新しい社会を生み出す改革を行いえたのは、聖徳太子・源頼朝・織田信長・明治維新しかない。中でも日本全体をひっくり返すような改革を行おうとしたのが、織田信長。

時代背景
1.応仁の乱から関が原までの130年ほどで、人口はおよそ二倍、国民総生産は約三倍に成長している。産業革命以前で、一世紀余りの間にこれほどの伸びを示しているのは、世界でも珍しいこと。
2.当時の農村は戦乱のたびに家・田畑は荒らされ、収穫の端境期には多くの餓死者を出してもいる一方、農業を離れて商人・職人になり生活を立てていく人も増える。室町後期より貨幣経済がかなり浸透していて、物品の流通も盛んになっていた。
3.技術革新。鉄製農具が普及し、耕作方法を改善されたことで収穫量が爆発的に増えた。大型の灌漑工事も行われ、耕地面積も増大。例:信長の育った木曾三川下流の輪中。鉱工業の発展。武田・上杉の有力大名は、いずれも金銀山を開発し、貨幣の鋳造などから大きな利益を得ていた。

当時の戦国大名の統治方法
あくまでも農民支配に基礎を置いたもので、室町時代の守護大名と変わりないところに問題があった。農民から徴収する年貢を財政基盤とし、戦の時には農民を徴用し戦力とする。家臣たちにはそれぞれの領地を保障して従わせるという、中世的支配システム。いわゆる土地本位社会。

信長の特徴
旧来型システムを否定し、農村共同体に立脚しないシステムを作り上げ、商業立国によって天下統一を目指した。

信長の組織・人事
1551年、父・織田信秀が42歳で亡くなると、三男・信長が織田家の家督を継ぐ。しかし重臣たちは信長に反旗を翻し、すぐ下の弟・信行を擁立。当初、信長側についたのが700人。信行側に与(くみ)したのが数千人。信長の部下は銭で集めた流れ者の集団、忠誠心・戦闘意欲は低い。信行側は、重臣たちが抱える農民兵。こちらは命懸けで戦い非常に強い。

信長が家督争いに勝つ理由
なぜかというと、農民兵は農繁期になると、みんな故郷に帰ってしまう。田植えや稲刈りの間は戦争ができない。それに対して銭で雇った流れ者集団は弱いけれども、一年中いつでも戦争ができる。農繁期を狙って繰り返し攻めて行く。攻められる農村共同体は収穫は減り、村が疲弊する。次第に信長に味方するものが増え、敵陣営は崩れていった。信長は兵農分離を実施し、独裁的に指揮できる常備軍を編成したのが勝因。

信長の組織戦略が成功した二つの条件
1.人口の増加や農業の効率化などにより、余剰人員が急増したこと。惣村や商業の座などの共同体が吸収し切れなかった人々が流れ者として存在していることを、信長は見抜いていた。
2.信長が当時の交易拠点だった津島湊(愛知県津島市)など、貨幣経済の拠点を押さえていた。

楽市楽座で成長スパイラルに
楽市楽座の実施によって、商業の自由を求める人々が流入し、経済活動はますます盛んになる。さらに信長は関所を廃止し、領地内の行き来を自由にしました。商人たちから「場銭」を取って、その金でまた兵を雇って戦争し領地を広げてゆく。信長はこうして成長のスパイラルを、自ずから生み出した。

重臣をも追放する成果主義

こうして信長は天下統一へ迫ってゆく。今回再認識すべきことは、信長が用兵に長けていただけでなく、規制緩和と減税によって自らの収入を増やしつつという経済政策のうまさ。時代を見抜く眼力というものでしょう。そしてなぜ今、信長を話題にせざるを得ないのかという、今日の閉塞感。それは旧支配体制を延命させるための作業を、「改革!改革!」と叫んでいる昨今に対する皮肉であろう。

武と農:http://ichirakusai.blog.so-net.ne.jp/2007-10-06

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