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正しい歴史認識:驕れる白人と闘うための日本近代史」(松原久子著 文芸春秋刊) [正しい歴史認識:国防 自衛 護国]

  • aikijpaikijp「BRICS銀行設立、新金融システム始動へ-先進国(白人クラブ)の支配が終わり、日本が世界を平和に 」。一つの政治的な流れとして、面白い記事ですね。 http://t.co/UuQQMGTM04/03 23:53

驕れる白人と闘うための日本近代史」(松原久子著 文芸春秋刊)リンク
 日本人の大衆の生活ぶりがどうであったのか、それを見事に述べられている著書です。
彼女がドイツに渡り欧米人の考え方の元をなす「思想的、技術的、経済的、芸術性」等は全て欧米が最先端技術を駆使して大国にのし上がってきたと言う自負に基づき、世界を見ている。日本は欧米文明に比べて500年は遅れていると見なしている。自分たち以外の文明がどのように形成されたか真面目に考えようともしない事に違和感を持ち、日本と欧米の違いについて研究しその違いを歴史的な視点についてまとめている。非常に興味をそそる内容になっているので、その一部を紹介する。

【引用記事】
江戸時代に「毎年農民による暴動があった。鎖国時代には全部で1500回くらいの農民一揆あった」などという日本の歴史家は多い。ところが、この「農民一揆」と数えられている事件を詳細に調べてみると、驚くべき結果が出てくる。

ある村の代表者と大名の代理人が年貢米の納入量について話し合ったが、合意に達することが出来なかった。そこで近郷のいくつかの村の代表者たちが一緒に大名屋敷へ参上し、年貢の軽減を願い出るために協力し合ったというだけで、それを「農民一揆」に数えられていたのである。そのような陳情が暴力沙汰になったのは極々稀なケースであったということは、全く甚酌されていない。

事実、「農民一揆」と言われている出来事の大半は、天候不順の為に収穫量が落ち込んだので、農民たちが配慮を願い出るといったような正当な申し出をしたとか、町へ静かに出かけて行って、自分たちの事情を説明してから、また静かに立ち去っただけに過ぎない事が証明されている。

どうして日本の歴史家はこぞって、「農民一揆」の目録を出来る限り沢山集めようと躍起になったのか、いつも不思議に思っていた。しかし、彼らの書いたものを読み、その何人かと話をする機会を得て、その理由が次第に分かってきた。

日本の事に多少通じているヨーロッパ人は、何かというと、日本人は革命を起こしたことが無いと言って非難する。この非難は、支配者の圧制に反抗しなければならなかったヨーロッパ人の経験に基づく思い込みから出発している。ヨーロッパ人にとって、ある国で革命が無かったということは、その国の民は意志の強さに欠けていることを意味する。

日本の長い歴史の中に革命があったことを示す記述を見出すことが出来ないと、日本人には救い難い欠陥があると見なされる。反抗が無かったということは、ヨーロッパの庶民族と違って日本人が卑屈な意志の弱い民族だという事を示す証だと言われてしまう。そこで日本の多くの歴史家は、古い史料の中に農民たちの不満が読み取れる些細な出来事を探しだして、そこにせめて革命の花火だけでも見つけ出そうと懸命になっているのではないだろうか。暴動が1件でも多くあったということを示せば、ヨーロッパ人に対して声を大にして「日本人だって意志強固なのだ」といえると信じているのではないだろうか。

しかし、本当の所は日本では同時代のヨーロッパ諸国と比べて、公正と自冶が高度に機能いしていた。農民たちは現存の統治システムに対して反抗しなければならないという感情に駆られることが少なかったのである。大名の改易や幕府の解体を求め、市民による統治を叫ぶ革命的な試みは、その萌芽さえなかった。そしてその理由は、欧米で良き鵜耳にするような、日本人が卑屈な民族だったからではなく、また当時自由を求める努力や試みが情け容赦なく弾圧されたからでもなかったのである。

もし仮に百歩譲って、農民一揆と言われている二百年以上の間に1500回あったという事の件数を正しいとしたところで、驚くべき農民の満足度の高さを示していることになる。当時日本にはおよそ六万三千の村があった。ということは毎年年貢米による納税額の決定が六万三千件あることになる。二百年以上という年月の中で総計1500回の争い、もしくは暴動あったとすれば、争いの起こった比率は一万件に一回という事である。

それでは、産業革命以前のヨーロッパの諸民族での農村での満足度はどの程度であっただろうか。

ヨーロッパの農民、特にドイツの農民は、日本の農民よりはるかに不安定な生活を送っていたことは確かである。彼らは日本と比較にならないほど、お上の横暴のなすがままになっていた。納税額は一方的にお上から要求され、協議に加えてもらうなど想像すらしていなかった。だからこそ、マルチン・ルターがキリスト者の自由を告知した時、彼らの多くはルターに希望を託したのである。農民たちはこの改革者を賦役と奴隷的状態のくびきからの解放者と見たのである。

しかし、精神の反逆者ルターは、農民の味方にはならなかった。彼は、農民の絶望的な状況をつぶさに見て知っていたにもかかわらず、あるいは知っていたからこそ、権力者側に付いた。彼は専制力権力者たちの味方なる方が、無力な農民の側に付くよりははるかに有利であることを知っていた。彼の唱える宗教改革を成功させるためには世俗の権力と金力が必要だった。だからルターは、「強盗のような殺人者のような農民の群れに抵抗する」と言ったビラを発行した。その中で彼は、支配者の不正に対して蜂起し、暴動を引き起こす者たちを断罪し、迫害した。「彼らを閉め出し、絞殺し、そして刺殺さなければならない、密かに、あるいは公然と」と書き、それに次のように付記している。「扇動的な人間ほど、有毒で、有害で、悪魔的な者はいない」。

一方、ルターと同じ宗教改革者で、農民の側に立ち農民と一緒に命を落としたトーマス・ミュンツアーはこう書いている。
「休まずにどんどんやれ、続けろ、火が燃えているのではないか。刀を血で濡らせ。そこにいるあいつらがお前たちを支配している限り、誰もお前たちに神について語ることはできない。なぜならそこにいる奴らがお前たちを支配しているからだ。休まず続けるのだ、がんばれ、時が来た、神が先に行く、神に続け」

ルター時代の農民たちの血なまぐさい暴動は、残酷なやり方で無慈悲に打倒された。蜂起した農民のうちおよそ十数万人が殺された。彼らに大半は、稚拙に組織された一揆が崩壊したのちに、領主による裁きによって殺されたのだった。ペトラルカ・マイスターの木版彫刻には、捕えられ、縛られた農民たちが鞭を打たれ、車裂きで刑処され、首を吊られ、くし刺しにされ、首をはねられ、生きたまま火あぶりにされている一方で、支配者たちが毛皮に付いたガウンを身にまとい、復讐が実行さる様子を観覧席から眺めている様が描かれている。

<転載終わり>


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