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当時世界第一の英国との同盟は、日露戦争の勝因。大東亜戦争の敗因は、負け組ドイツ・イタリアと組んだこと。今日の日米同盟は、日本の安全保障のために不可欠です。 [正しい歴史認識:国防 自衛 護国]

  • aikijpaikijp「義和団の乱で活躍された柴五郎が、合気道の源である会津ご出身とは、今回知りました。日本の誇りだな!」 http://t.co/8ZjtQphM10/27 23:37

 柴五郎と同じように、肉親の凄惨な死を子供時代に接した人に、渡辺和子さんがあります。紹介させていただきます。

渡辺 和子(わたなべ かずこ、1927年2月 - )は学校法人ノートルダム清心学園の理事長。

父は渡辺 錠太郎。1936年2月26日に渡辺は二・二六事件で陸軍将校に杉並区上荻窪の自邸で午前6時頃殺害された。61歳没。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E より引用開始)
「1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。
翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選ばれた。
渡辺は、乱れきった陸軍の統制を締め直すために、あえて火中の栗を拾った。渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を丸善書店の支払いに充てているといわれていた。名古屋で第3師団の将校たちを集め、天皇機関説を擁護したといわれているが定かでない。しかし、この就任劇がいわゆる皇道派青年将校を刺激したことは確かである。」
(引用終わり)

渡辺 錠太郎は家族へも、

「国を護るために軍備は必要だが、たとえ戦争に勝っても国は疲弊するので、決して戦争をしてはならない」

と語っていた。

父の死を家族の中で唯一物陰から目撃したのは、次女の渡辺和子。彼女の記憶によると、布団を盾にしての応戦むなしく、機銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。この銃器は、父が選んで配備した軽機関銃だった。
銃剣で刺され、30数発の銃弾が打ち込まれた父は、拳銃を握ったままだった。


近寄って、
「お父様!」
と声をかけた時は、完全に絶命状態。(2013年10月28日 NHKFM はかま 満緒の日曜喫茶室にて、渡辺数子語る)

(雑誌『文藝春秋』2012年9月号に、渡辺和子さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記 より引用)
「父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。」
(引用終わり)

事前に憲兵は情報を得ていて、見殺しにする指令を受けていたと、推察されます。

「あの父は何処へ行ったの」
この疑問の答えを得たい思いで、渡辺数子は洗礼を受けた。


軍人たちが裏口へ回り込み屋内に侵入した時。
渡辺夫人は
「軍人としてあまりに乱暴ではないか」
と身を挺して制止した。

この渡辺数子の母は、


「今日の貴方たちの笑顔より、将来困ることのないようにと思って、厳しくしているのよ」


と、子供たちに語りながら育てたといいいます。


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