Ono Ha Itto ryu Kenjutsu 会津伝小野派一刀流剣術:剣術に受けなし [古武道:無限神刀流居合術・会津小野派一刀流剣術]
「剣術に受けなし」と、言われます。
これは真理なのですが、言葉だけ読めば、剣術の稽古・技に「受け」の型・動作はないことになります。しかし実際はあります。どう考えたら良いのでしょうか?
写真は「受け」の稽古。真行草の真の稽古では、「打ち方」と同時に「受け方」を、行わなければならない。
「打ち方」を稽古することで、仕掛太刀は、間合い・中心・身を入れて打つことを学びます。
「受け方」を稽古することで、打太刀は、誘い方・「早からず遅からず」・身を入れて受けることを学びます。
しかし
「受け」は、あるにはあるけれども?まず二種類に分けて考えます。
A.勝って受ける「受け」
極意歌にある「斬り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ」。この地獄の場所に入り切った受けは、勝って受ける「受け」です。これは即、勝に通じるので、受けにして「受け」ではなくなっています。受けとしての接触や型は、ほんの刹那で消えます。
B.負けて受ける「受け」
Aで言うところの地獄に入っていない受け。仕掛けの太刀からすれば、頭頂部や横面が、空いた受けは、負けて受ける「受け」です。これは即、負けに通じるので、受けにして「受け」ではなくなっています。 単に「受けられない」に過ぎません。
以上のように、AにおいてもBにおいても、剣術において「受け」はあるけれども、無いとも言えます。
では何が言いたいのか?
真行草の行草の稽古では、「受け」は無くなる。しかし、動作はなくなっても、中心は空いては、ならないのです。その意味では、「受け」は、あるのです。
「さあ、来いよ」と、誘った
中心を取っているので、打ち太刀の頭頂部は、空いていない
「頂きました」と、接触した刹那、頚動脈へ斬り込む
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