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合気道とは 循環と中心軸 [合気道 練習]

O君の場合

O君は、お兄さんが稽古していた関係で参加し始めたのは、小学一年生入学の時です。

合気道の稽古は、「武技の修錬」と「人間形成の道」です。お子さんにとっては、遊びの延長でスタートしますが、難しい技や話は分かりません。O君も、すぐに合気道を辞めたくなってしまいました。私も「辞めたいよー!辞めたいよー!」のO君の表情を見ると、寂しく感じたものです。

しかし今は違います。写真が、三年生となった今のO君です。この日、お兄さんが風邪で休むのに、一番に一人で来て稽古開始を待っています。10月31日のことです。彼を変えさせたものは、何でしょうか?

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循環と死生観

心魂と身体について、日本的な考えはどのようなものでしょう。

宇宙がある。

その中には相克する力も、結び合う力もある。

結び合う力の中に、男性神と女性神が現れる。イザナキノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)です。

イザナとは【誘う】という意味です。

イザナキのキとは、木のようなものと思います。大地から出っ張っているものが木です。男性のシンボルのことです。

イザナミのミとは、満ちるのミ・海のミのようなものと思います。窪みに貯まった水がミです。女性のシンボルのことです。

一人は凸出っ張り、一人は凹へ込み、二人は完全ではありませんでした。そこで2人はイザナウ誘い合う男と女。重なり合い子を授かるります。

「天命これ性といい、性に従うこれ道という」という意味の性。A家の性とB家の性が交わり、性交といいます。

この時、「身体という衣」に、宇宙~イザナキノミコト(男神)・イザナミノミコト(女神)~自分の父母~自分へと分け伝えてきた心魂を入れます。自分は、神霊から分かられた心魂で、分け御霊です。心魂と身体が合体して、心身です。

「身体という衣」は、生き切ることで、使い切ります。

使い切った「身体という衣」は荼毘に付され、心魂すなわち分け御霊は、宇宙すなわち神霊に帰ります。

日本の原始的死生観は、次のように理解されます。

家には仏壇あるいは、神棚が祀ってあります。家庭の長男の家系をたどれば天皇家と源平藤原各氏族と繋がります。氏神の系統をたどれば出雲大社・伊勢神宮と繋がります。

常日頃から仏壇・神棚を通じて祖父母など身近な先祖に見守られて生活している。つまり仏壇・神棚は、この世とあの世とを結ぶ窓口です。自宅あるいは本家こそが、祖先のいるあの世に通じる一番身近な場所です。

自宅死(自宅で息を引き取るということ)は、家族親戚のみならず、自分の祖先にも見守られて息を引き取るということである。また将来は自分も子孫による先祖信仰の継続によって、子孫を見守る存在になるという思想です。

私の経験を申し上げれば、祖父母の代までは(1970年代前半)自宅死が普通のことで、跡継ぎの長男が指揮を執り、親戚一同協力し合って葬儀を行いました。その後二世代にわたる都市化の進捗により、原始的風習の多くは失われつつあります。風習の喪失と同時に、日本の良き国柄・良き死生観を失なうのであれば残念に思います。

日本の死生観を述べましたが、洋の東西に関わらず、原始的死生観の背景は循環であると思います。(また合気道の稽古は、特定の死生観を主張するような場ではありません)

「生きる」は「立て直し」

生きるの「いき」は、息とも意気とも解せられます。気概をもって、元気に息している間は、生きているのです。

与えられた心魂と身体を、気概をもって元気に生き切ることが、大切です。さて、そこで疑問が起きます。御霊は、分けていただいた時とお返しする時と、同格で良いのか?せめて少しでも立て直して、格上げしないと、申し訳ないです。こうして初めて、宇宙の生成発展に寄与するのです。

そう思うのが人の道・人間道・人間形成です。

循環の合気道練習

気道の練習は、心魂と身体の中心軸を確立する場です。

身体の中心軸

相手の中心へ入りなりながら変化する修錬です。さながら「寄せては返す波」の循環です。相手の中心へ寄せて入り身になり、返す波のように転換・体の変更します。

この合気道の特徴は、剣の理合に由来します。自分の中心軸を立て、相手の中心へ入りながら、剣で切るように身体を使います。それ故に「合気道の練習は、中心軸を確立する修錬です」と申しました。

そして中心軸は身体のみならず、心魂の中心軸です。

心魂の中心軸

心魂の中心軸とは何か?それは、愛と誇りではないでしょうか。

1.自分(死生観含む)に対する愛と誇り。

2.自分を育ててくれた家族に対する愛と誇り。

3.家族・地域を護ってくれる国家・歴史に対する愛と誇り。

これが、心魂の中心軸と考えます。1はすべての基本ですが、これはどうしたら育てられるものでしょうか。

循環の学び合い

稽古を終えて、この日は次の言葉を、皆さんで唱和しました。

「情けは人の為ならず」。

そして私はO君に尋ねました。「君は誰のために稽古するのですか?」。

O君は、はっきり答えました。「自分のため!」。はたしてこれで良いのでしょうか?「護身術は身を護るのだから、自分のため」?もちろんO君は、そのような矮小な意味で、言っているのではありません。

O君の良いところは、後輩に親切に指導することでした。私は「O君の教え方は上手だね?誉め方も良いね!」と、声を掛けるように努めました。やがてO君は「指導しなくっちゃ!」が口癖になり、後輩により丁寧に接するようになりました。

指導とは

指導とは、「目的を指示し、そちらへ人を導く」意味です。ですから「指導させていただく」ということは、「目的を再確認し、そこへ至る過程を自分が理解しているかの検証」ということができます。

後輩の指導に楽しさを感じ始めたO君は、技量も上達しました。級も白帯から始まり、黄・橙・緑と進みました。今では道場に入る時の挨拶に、「今日もブン投げてください!」と言うようになりました。O君の中で自利利他から利他自利へと、正の循環が起きたのです。

努力して心技体を高める。後輩へ指導する。自分の技量を再確認する。さらに指導が丁寧になる。後輩はO君に感謝し尊敬する。O君はさらに稽古への動機が高まる。これが正の循環です。

O君は、そんな自分自身を愛おしく誇りに思うことでしょう。自分を愛せて、初めて人を愛せるものです。家族を愛し、国を誇りに思うものです。O君は、「誰のために稽古する?」と聞かれてはっきり答えました。「自分のため!」。自分を愛し誇りに思う、それがすべての基本と思います。

O君はこれからの人生で、様々な壁にぶち当たることでしょう。それも愛と誇りで、乗り越えてくれることでしょう。O君は小学生のうちに、合気道の循環世界の中で、心魂の中心軸を立て直す経験をしたからです。


タグ: 循環
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