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時期と時機 (合気道を学ぶ目的) [素心]

  小耳にはさんだ会話、新聞の小さな記事。それが後々大きくイメージが膨らみ、何かの発見に繋がる。私にとってそんな時が、追いまくられるスケジュールの中で心の自由を楽しむ一瞬だ。今日は落ち葉の話。

  ドーナツ店にいた時のこと。初老のご婦人が二人、隣りに座っていた。会話は盛り上がっていて、否応なく話が私の耳に入っていた。
  「時期が来れば、お皿はテーブルの上においただけでパリッと割れるでしょ?あれと同じよ」。膝も腰も(人の身体、健康も)、来るべき時期に、なんでもないことで故障することをお皿で例えているのだった。明るく本質をついた表現に、その時は面白さを感じていた。

  それから一ヶ月も経た日曜日、わたしは千葉市から国立市・八王子市へ向かって、合気道の巡回指導のため高速道を走った12月9日のこと。事故渋滞の表示が出たので、高井戸で降りて一般道を走ることになった。車が三鷹あたりにはいると、道の両側の街路樹は銀杏並木。




写真は国立(葉の落ちきった姿は20.01.27撮影)

  この日は晴天、風は弱い。銀杏の葉の黄熟は、限界点に達していた。少しでも空気が枝の中を動くと、もう耐えられない様子で銀杏の葉がパラパラと落ちていく。それが何本もの木が同調して、時には波状に伝わっていく。
  あー!美しい!私はハンドルを握ったまま目を奪われていた。心が開放される感動とは、こうした場面のことであろう。自然と、ご老人の皿の例えを思い出していた。

 「時期が来れば、お皿はテーブルの上においただけで」と言った。「じき」。身体や物のことであれば時期。心のことであれば時機。ささやかな風に反応して葉が落ちれば、それは時期。葉が落ちるのを見て心身脱落する契機となれば、それは時機。

一楽斎の庭

良寛さん辞生句の一つに
うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ
というのがあったな。







  言葉の介入する余地は、ほとんどない。あったとしても「自然に」、ぐらいのもの。時期を時機として主客を転倒するところに心の自由、植芝開祖の仰せになった「ひれぶり」があると思う。日々の精進によって、日常においても心身をこうした状態に持ってゆくことが、合気道を学ぶ大きな目的。護身術から護神術への止揚が、ここにあるのではないだろうか。

合気道楽心館:http://aiki.jp/
動画ブログ:http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3?
問合せメール:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp


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