Daito Ryu Photo Today: 武道の師弟とは [素心]
袖触り合うも、他生の縁。(そでふりあうもたしょうのえん)
仏教説話の一つとして知られたもので、「道で見知らぬ人と袖がちょっと触れ合うようなささいなできごとでも、それは単なる偶然ではなくてすべて前世からの因縁によるもの。だから、どんなささやかな出会いもたいせつにせよということ」。
この因縁が、肝心である。
釈迦の教説の根本を一言でいうと「因縁」となる。
- これありてこれあり
- これ生じるがゆえにこれ生じ
- これなければこれなく
- これ滅すればこれ滅す
という存在理論だそうだ。(ウイキペディアより)
「これありて」とは何か?
我々にしてみれば、「自分を精一杯高め、悔いなく生きよう!」、志という因がある。
「これあり」とは何か?
そして武道を選ぶ、それによって共に学ぶ人が収斂するという縁がある。
私の存在、学させていただく人の存在、お伝えさせていただく人の存在。
そして忘れてはならない心は何か?
仁義礼智真とも、何とも言おうが
「学させていただく」、「お伝えさせていただく」の感謝と礼。二つの心を、忘れてはならない。
武道の子弟の因縁とは、そんなことだと思います。
教える側の感謝と礼
私は
稽古場へ一番最初へ赴く。
自ら先に挨拶をする。
何処であっても、それを毎日繰り返して幾十年。
お稽古人様を、お客様扱いするというのではない。指導者といえども、礼と感謝は、なければならない。
これを古来、
師とならば 弟子を立てるを 旨とせよ
己が強さを 示すべからず
師匠であれば、技術で卓越しているのは当然の事。かといってお稽古人様は、その技術のみに、付いてくるのでもない。
「弟子を立てる」とは、仁徳なり、感謝と礼ではないだろうか。
学ぶ側の感謝と礼
写真は、今年の長尾一刀斎全祐先生のご指導。
「おっ!(合気上げが)かかってる。たいしたもんだ!」と、声をかけながら。
「ありがたい」と、素直に喜ぶも大切。
「いやまだまだ」と、それを真に受けてならないも大切。
励ましながらも、さらに精進しろよと、戒められてるのが事実だ。
分際に見合った精進を、なさねばならない。それが世阿弥の仰せになった「時々の初心」ではないかと思う。
以上、言われたらお終いの、当り前の話でした。
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