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桜花(おうか)は謳歌?3 [素心]

桜花は謳歌しましたか?
イエスかノーで、答えて下さい。
なんて、おかしい質問です。
謳歌することの定義が、設定されていませんから。

では、納豆・鷹山・尊徳・敷島の歌、これらすべての共通点は何か?としたら答えられるかなぁ?
答は写真の下へ。



答:データ捏造・歪曲です。

納豆とは、あるある大辞典のデータ捏造の話題です。

納豆は中国から漢字を輸入した際、翻訳者が豆腐と漢字を入れ換えてしまいました。本来は、ナットウと呼ばれるものは豆腐と表記され、大豆を発酵させたものという意味です。トウフと呼ばれるものは納豆と表記し、大豆を絞って箱に納めたものという意味です。漢字の誤用が一般化した代表の一つ。
ナットウは豆を発酵させたものですから、豆の消化吸収が良く、低インシュリンで膵臓の負担を軽くします。科学的にみても、大変優れた食品です。 ところが関西テレビのデータ捏造で、評価失墜。スーパーでは在庫の山だったそうです。本質をみられないのは、番組提供側も国民も、同等です。

さて上杉鷹山・二宮尊徳・宣長の敷島の歌、これらもデータ捏造・歪曲です。これらは先の大戦前・中に、富国強兵のために歪曲した解釈が利用されました。実像は素晴らしいのに、当時のイメージの悪さから、今だ正しい理解が普及していません。



敷島の歌は、ソメイヨシノではない山桜を歌ったものです。山桜はパラパラと枝に咲き、パラパラと散ります。散華(さんげ)などと特攻隊の理想とは、ほど遠い。それに比べソメイヨシノの散り際の豪壮さは、非人道的な戦闘に国民を駆り立てた戦前の超国家主義に利用されました。
本居宣長は「古事記伝」を完成させた三年後、遺言で遺産相続には一切ふれずに、葬儀の仕方と墓所の位置を細かな地図付きで指定したそうです。そこは伊勢湾を望む山室山、三重県松阪市西郊。そして厳選した山桜を植えるように、付け加えました。

さて最初の質問です。桜花は謳歌しましたか?謳歌を自分なりの捉え方で、自由に答えてください。
はい、私なりに答えてみましょう。

本居宣長は「桜花 うかきいろともみえなくに ちしほにそめる わがこころかな」とも歌っています。
桜の花びらの散るのを見つめてみました。光線には色がありませんが、桜の花びらを通ることで「うかきいろともみえなくに」。光線が美しく変色します。柔らかく音もなく散り続けます。聴覚・触覚・視覚、すべての感覚が敏感に働いて、桜を見ます。これを毎年春に繰り返すと、桜は日本人にとって、愛しく懐かしいものとして根付くのです。
日本人の心をたずねたならば、「朝日に匂う」・「うかきいろともみえなくに」山桜の美しさに感じ入り、「ちしほにそめる わがこころかな」。これこそ「もののあはれ」に通ずるのです。

合気道楽心館:http://aiki.jp/
動画ブログ:http://blog.goo.ne.jp/ichirakusai3?
問合せメール:ichirakusai3@mail.goo.ne.jp


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楽心館と楽氣の代表

響(きょう)さん
nice!1をありがとう。
by 楽心館と楽氣の代表 (2007-04-06 22:32) 

家康

一楽斉先生

「不自由を常と思えば、不足なし」家康でございます。
先生の記事のひじょうと、わい曲(または詐欺)について思うところを綴ります。
言葉というものは、大変難しく、本当に正しく人に思うことを伝えるには、あまりに不完全なものと常々思います。結局、脳の活動を外に正確に表すことは、残念ながら現在の科学技術では不可能で、不完全なものとして、言葉、行動、挙動、接触などなど色々組み合わせて伝えていくしかないのだと思います。

非情という言葉は大変難しい言葉だと思います。ともすれば、「血も涙もない決断」の正当化に使われる場合もあると思われます。先生のかかれた上杉鷹山の非情とは、「いたしかたない決断」という言葉の方がニュアンスが近い気が致します。

また、ねつ造、わい曲は他者を欺くものであり、詐欺と同類のものですが、不本意にそうなったものと、故意に行ったものでは、結果は同じでも、意味は全く違います。
残念ながら、特にスピードと大量消費の現代社会では、ほとんど結果しか見ないので、その意味を考える人間は、どんどん減少していると思われます。
その結果、不本意にそうなった人が誤審/策謀によってさばかれ、故意にやった人が不本意なフリをして救われるという本末顛倒なことも、実のところ、非常に多くなっているのではないかと思われます。
「利子で生活することを目指す」欧米型資本主義社会では、残念ながら、「良心のない人間(本当の悪魔)が増殖する」ことも、精神医学界で近年判明しており、スピード社会に法律が追い付かず裁くのは極めて困難であることも、事実です。
ただ、救いは東洋思想の「働かざるもの食うべからず」、及び「子供は神の子」とした共同体によるきめ細かい教育が「「良心のない人間(本当の悪魔)の増殖」を抑制することも判っています。
しかし、近年の日本では、この東洋思想やきめ細かい教育が、これまたドンドン減少している気がします。「利子で生活することを目指す」欧米型資本主義社会に移行している気がします。強いと善いことは別ですが、強さに偏って追い求めている気がします。
これら、東洋思想やきめ細かい教育は、原理的にマスプロ教育である日本の教育界では不可能です。

武術は、特に接触を通して身体で感じるものであり、人とリアルに体面して学習するものであり、東洋思想やきめ細かい教育にも繋がり、すばらしいとつくづく思う今日この頃です。
まさに先生のおっしゃる「身体の文化」で、失ってはならないものだとしみじみ思います。
特に、私は、仕事がら「頭でっかち」になりやすいので、武術で「体でっかち」にして、なんとかバランスとれてます。
感謝致します。
by 家康 (2007-04-08 11:29) 

楽心館と楽氣の代表

家康さん
つい先ほど会ったばかりですが、こんばんわ。
分からない世界に踏み込むのですから、どうしても仮説を立てて、試行して、検証して。となります。
ところが立てた仮説に合致するように、データを改ざん・捏造してしてしまうと?
そこに不本意で行ってしまう場合と故意で行ってしまう場合とが、あるのですね。こうしたことがあるから、仮説を立てること自体の危険性を最初から認識していないと、仮説を立てながら試行することは考え物です。

この点稽古事は、古来「正師を得ざれば、学ばざるにしかず」ということの意味の深さが、うかがい知れます。分かりもしないのに、暗中模索することの危険さ無意味さです。
我々の場合、長尾先生に示された型・合気の手・口伝に導かれて、稽古を洗いなおすチャンスを与えていただいた。この縁の大切さを、改めて思うのです。
by 楽心館と楽氣の代表 (2007-04-08 22:38) 

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