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児童虐待・DVは、先延ばししないで [素心]

  SN3D01640001.jpg写真は国立一般クラスの稽古風景。兄弟あり夫婦あり親子あり。楽心館の普通の稽古風景である。20年前この場所より細胞分裂するごとくに、当会の稽古所が拡大したのだから、私の原風景といえるかもしれない。

  一見平和そのものといえる景色といえども、何の波風もない、ということはない。会全体の中では、社会の縮図ともいえる現象も、当然のように押し寄せてくる。離婚・児童自虐・児童虐待・DVの相談などなど。

  この仕事をしていて、崩壊する家庭、巻き込まれるお子さんを見届けなければならない時ほど、辛い時はない。そして、さらに慙愧に耐えない思い出もある。

  ある問題行動の目立つお子さんがあった。三年近くにわたって、その対応について、常に話題になってもいた。そして後になって、「親より暴力を受けている」という情報が上がってきた。

  いったい何をしていた三年なのか。何かを護るつもりだったのだろう。ところが先延ばしでは、問題の根の部分は何も解決はしないし、傷は深まるだけではないかと思う。

  児童虐待・DVは、即、児童相談所(東京都児童相談センターはここ)や警察へ通知するべきであると思う。先延ばしは、放置に等しい。最近も児童虐待のニュースが多く、身の毛がよだつ思いだ。三日に約一人のお子さんが、親に殺されているというではないか。

(国立稽古写真と本文に、関連はありません)

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コメント 4

ギザミミふぇねっく

もし、

身近に傷ついた子供の存在を気付かれたのであれば、どうぞいつも指導していらっしゃる方々が何も言わずギュッと抱きしめてやってください。

子供達が、人を信じるの辞めてしまう前に。

恥ずかしがらずに、ただ抱きしめてやってください。

我が子をもつ皆さん。
1日に何回抱きしめてあげてますか?


本ブログを拝見し、主旨に合わないと感じつつも、失礼ながら思いを綴らせていただきました。


by ギザミミふぇねっく (2010-04-16 13:40) 

一楽斎

ギザミミふぇねっく様

本ブログの主旨に合致したコメントを、ありがとうございました。

父親として
息子は中学二年なので、もう抱きしめる時期は過ぎたように思います。それでも毎晩、寝顔を見にいきます。週に二、三回は、一緒に風呂に入ります。そこでの接触は会話は、彼が反抗期の現在、たいへん貴重な場となっています。息子はこちらを信頼しているから、安心して反抗する、ということもありましょうね。

指導者として
子供達が、人を信じるの辞めてしまう前に。はたして、自分は信頼される指導者なのか。とてもそうとは言えない自分なので、恥じ入りました。


by 一楽斎 (2010-04-18 23:35) 

ギザミミふぇねっく

一楽斎さま


決してそのようなつもりでコメントした訳ではないのです。
申し訳ございませんでした。

身近すぎる家族では子供の心の変化を色々と気付いてやれないこともございます。

子供にとっての居場所を作ってやる意味でも、学校以外の、お稽古事での先生や他のお弟子さん達との関わり合いが、とても重要と私は考えているのです。

ご指導される先生と子供達一人一人がもっと身近に感じられると良いですのに・・・。残念ながら、今の世の中は難しいですね。


一楽斎さまのご評判からこちらに入会される方も多いとお聞きしますよ。


これからも皆様のご活躍を楽しみに致しております。
by ギザミミふぇねっく (2010-04-19 00:19) 

一楽斎

ギザミミふぇねっく様

ご丁寧な書き込みに感謝します。貴殿に、ご理解いただけるか分かりません。失礼があるかもしれませんが、普段考えていたことを書き込みます。ご不快であれば、お赦しを請う次第です。

「稽古事の場における人の信頼」と「人を信じるという時の信頼」は、完全に一致するものではないと思います。

しょせん道場は良くも悪くも稽古事で、できなければいけないことは形にしなければいけない、やらなければいけない役割はやらなければならない、そこを突き抜けて人間を鍛える場だと思います。
そしてそれは人間生きていく中で、必要なことで、いちいち避けていられません。がんがん叱る場面も生じますし、その方向性に信がなければ、場の人間関係が成り立ちません。

これは時に、「人を信じるという時の信頼」より狭義でありながら、優先される場面が多々あります。

ところが身体的暴力を行っているという虐待は、犯罪です。「抱きしめて信頼を築く」という場面でもありません。毅然と行動することが必要であり、義務だと思います。通報という行動が抜け落ちて、もし抱きしめて何かが解決するとか、子供の助けになると思うのは、きつい言い方ですが「無知なる善意」と表現したくなります。現在、どうにも止まらない社会の虐待の状況を見ていると、そう言いたくなってしまうのです。
by 一楽斎 (2010-04-21 00:44) 

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