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(日本人から)勉強、行儀、修身、男であること、責任を持つこと、約束を守ることを教えられた [正しい歴史認識:国防 自衛 護国]



日本の教育や経済発展 「我々は昔に戻るべきだ」






ペリリュー島の日本軍司令部跡。長年の月日でツタや植物に覆われていた。一歩、踏み込むと弾痕や破壊された跡も生々しく残っていた=12月11日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影)

 1914年、第1次世界大戦でコロール島を占領した日本は、ベルサイユ平和条約でパラオ共和国を20年に委任統治下に置き、2年後、南洋庁を設置した。小学校や実業学校、病院、郵便局などを設置したほか、インフラ整備も進め道路や港湾、飛行場などを建設した。法律は原則、日本の法律が適用された。

 日本政府による統治は45(昭和20)年までの31年間続いた。パラオは日本の小都市のような発展を遂げ、日本人も23年に657人だったのが38年には1万5669人を数え、パラオの総人口の7割を占めた。44年時点では、パラオ人約6500人に対して約2万5千人の日本人(軍人をのぞく)が住んでいた。

 元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は「どんどん日本人が移住してきて、コロールの中心街は日本政府の出先機関やショッピングセンター、飲食業、娯楽施設が軒を連ね、『第2の東京』とさえ呼ばれた。農業や漁業などの産業も発展し、稲作やパイナップルなどの生産を促し、余剰作物は輸出に回した」と話す。

 この間、日本政府はパラオ人に対する日本語教育にも力を入れ、3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成される公学校が6カ所建設された。

◇   ◇

 日本政府の対パラオ政策の恩恵はペリリュー島にも及んだ。

 ロース・テロイさん(94)によると、当時、ペリリュー島には病院が1軒あり、日本人の医者2人が常駐。日本人が経営する「シホ」という雑貨屋があり、50円で何でも買えたという。日本の会社も多く、島民は働き場所を得ていたという。

 公学校は「中山」と呼ばれた山の麓にあった。戦後70年となる今、ジャングルに覆われ、わずかに門柱が残るだけだが、鉄筋コンクリート作りで、高さは5メートル近い。敷地内には畑があり、野菜を作っておいたといい、いかに立派な校舎だったか想像できる。

 テロイさんのクラスメートは男女合わせて20人で、3クラスあった。パラオ人の先生も1人がいたが、日本語や日本の歌はハシモト先生に教わったという。

 「夫婦で先生をしていて、奥さんは着物のときもありました。『親を大切にしよう』『ありがとうございました。どういたしましてと言おう』と教えられました。先生の2人のこどもと一緒に歌ったこともあります。正月に日本人と一緒に遊んだことが今でも思い出されます」と、テロイさんは楽しそうに笑顔を見せた。

 マルタンサン・ジラムさん(83)は公学校跡地の門柱の前を通ると、毎朝「おはようございます」とヒラマツ先生にあいさつしていたのを思い出すという。公学校の2年生まで日本語の勉強をしたが、3年生の時、空襲で学校がなくなり、疎開した。

 ジラムさんは当時を懐かしむように、「桃太郎」を歌ってくれた。「ヒラマツ先生に会いたい。優しくていい先生だった。『お父さん、お母さんを大事にしなさい』『家のことを手伝いなさい』『ありがとうと言いなさい』『困っている人がいれば手伝いなさい』と教えられた」

 悪いことをすると叱られたという。「だから、私も子供が悪いことをすると謝るまで手を上げた。ヒラマツ先生に教えられたことは5人の息子に伝えてきたし、息子には子供ができたら同じように伝えなさい、と話している」と語った。

 アマレイ・ニルゲサンさん(79)によれば、「半ズボン」「便所」「草履」「熊手」「大丈夫?」「先生」「大統領」「飛行場」「バカ野郎」「ごめんなさい」「よろしく」「面白い」「飲んべえ」「ビール」「野球」「勤労奉仕」「炊き出し」など、多くの日本語がパラオ語として定着しているという。

 イサオ・シンゲオ・ペリリュー酋長(しゅうちょう)は「戦争は良くない。だが、日本は新しい生活様式を伝えてくれた。われわれの生活スタイルが近代化し、生活が向上したのは日本のお陰だと感謝している」と笑顔を見せた。ウエキさんも「統治時代の教育や経済発展を通して、パラオ人は日本人として育てられた。パラオ人は日本に感謝している。今は日本語を話すのは少なくなったが、われわれは日本に戻るべきだと考えている」といい、「天皇陛下がいらっしゃるのがうれしい」と何度も繰り返した。

イナボさんは雑誌のインタビューに「(日本人から)勉強、行儀、修身、男であること、責任を持つこと、約束を守ることを教えられた。男とは自分に与えられた義務を成し遂げる、任務を果たすことなんです。パラオは昔の日本と近い」とも語っている。

 パラオの人たちの心のどこかに、日本を“親”“身内”のような存在ととらえているのではないだろうか。そして、パラオには日本以上に日本の心が生きているではないか-。そんな印象を抱いた。


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