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歩けば技になる 錯覚と術 [武道:剣柔一体(気剣体)]

歩けば技になる

「歩けば技になる」と、植芝盛平先生が仰せになったと伝えられます。 歩くような簡素な動作で、相手に力を感じさせずに崩したり制することが、可能でしょうか? 

「歩けば」:相手の肩や中心を取っていれば、言葉のままにまっすぐ歩くだけで、崩す技になります。この場合、無駄のない自然な動作で動くことの大切さを象徴して「歩けば」としているのであって、他の表現でもよいのです。例えば「カーテンを開くように」とか、「針の穴に糸を通すように」とか、「お茶を飲むように」でも良かったのです。

再現性あるとすると、どのように考えるべきでしょうか?そして、どのように稽古すべきでしょうか?

衝突事故

11月のある朝、テレビニュースを何気なく聞いていました。「軽自動車と幼稚園の送迎バスが衝突し、保母さんと園児が搬送されました」と、声が聞こえました。ふとテレビ画面を見ると、北海道の見通し良い交差点での衝突で、バスが横転している写真が放映されていました。「あっ?あれだな!」

私は以前に、文京道場の五十嵐さんにまとめていただいた「合気道にみるニュートン力学とその延長線上にある海と空の事故原因に関する考察」を、思い出しました。

衝突した運転手は、回避行動を起こさない現象が生じたのです。これを考察することは、武術における術的動きの理解へ助けとなります。

錯覚とは

今回話題の交通事故の当事者に、何が起きているのか?医学的には錯覚というそうです。運転者の視覚には自動車が見えているが、回避行動を起こさないという錯覚です。

錯覚とは、「感覚器に異常がないのにもかかわらず、実際とは異なる知覚を得てしまう現象のことである。対象物に対して誤った感覚や認識を得るのが錯覚であり、存在しない対象物を存在すると見なしてしまう幻覚とは区別される。」と説明されます。

さらに錯覚は、その原因により大きく4つに分けることができるそうですが、事故や武術の場合は、生理的錯覚という名称が該当すると思います。生理的錯覚を理解し、再現性を持たせることできれば、武術の術として使えます。

武術の場合

武術の場合、生理的錯覚を利用しますが、視覚的錯覚と接触的錯覚があるのではないかと思います。両方大切ですが、特に合気という場合は、触覚的錯覚を多用していると思います。

視覚的錯覚 

視覚的錯覚とは、当身・蹴り・剣などの武器の動きが見えなくなる場合で、最初の話題にした交通事故の現象に通じるものと思います。剣の世界で「透明な打ち」ともいわれます。どう考えたら再現できるでしょう。

古来、理想の動きを氣剣体一致といいます。この点について植芝盛平先生は、「体主霊従が霊主体従とするをひれぶりという」、独特の表現をされています。

稽古相手は、こちらの身体を通して心気を感じようとして、全身を見ています。これを遠山の目付といいます。こちら側が体主霊従であれば、心気の動静を身体の気配から、すべて見切られてしまいます。こちら側が霊主体従であれば、動きの動静を見切られることなく、稽古相手に入ることができます。

神氣に随う剣、剣に随う身体。しかも気剣体、全てが一致してる。これが気剣体一致であり、霊主体従であり、「武が随神(惟神)の道」(かんながらのみち)となります。

触覚的錯覚 

触覚的錯覚とは、接触した状態から、動きを感じさせないまま抜き崩すような技法にみられます。視覚的錯覚を理解したからといって、触覚的錯覚が理解できるとは限らないです。両方並行して修錬しなければならないです。むしろ後者の方が難しいと考えます。

接触点を動かさない・体軸がぶれない・目標へ直線運動をする・しかも等速である・しかも等圧である。これらを同時成立させないと、触覚的錯覚に再現性を持たせることは困難です。

術として

稽古でAさんに手首を持たせた場合、Aさんに「手首を持った感覚がない」と、語らせるようにならなければなりません。Bさんに小手を抑えさせた場合、Bさんに「いつ入ってくるか、情報がない」と、語らせるようにならなければなりません。AさんとBさんは、この時、触覚的錯覚を起こしているのです。

「力抜きの手」と口伝あります。はたしてどのようなものか、探求は続きます。


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