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玄関 3 一と二と万と [古武道:無限神刀流居合術・会津小野派一刀流剣術]

「一日の稽古場所が多いし、移動距離も長く、たいへんですね?」、そうおっしゃって下さる方が、多い。
その御言葉は、有り難く拝聴しています。

確かにそうですが、そうともばかり言っていられないし、ものは考えようでもある。
まずは目の前のことに集中し、一日を使い切ること。

疲れ切って、移動中の電車や高速道のパーキングエリアで、10分前後熟睡することが多い。これが前後不覚になるほど深い。「あれっ!自分は今、何処へ行くのだっけ?」と、自分のおかれている状況が分からないことがある。

この瞬間、新しい一日が始まる。
一日を使いきるつもりでいると、一日が二日になる。
何か得をしたように思う。

福澤諭吉は明治維新後の、改革のために尽くした。
そして後年、自分の人生を次のように振り返った。
「一身にして二生を経るが如く、
一人にして両身あるが如し」。

一度の人生なのに、江戸と明治の二つの時代を経験することが出来、二度の人生を得たように思う。そう仰せになっている。

目の前の一つになりきることが、大切。これが武では、意・形・刀、三位一体。
そしてそれが、二つにも三つにも繋がる。

これを会津伝小野派一刀流では、一刀即万刀に通じる。と教える。私はこのような万刀(ばんとう)の実践が、世を照らす万燈(ばんとう)になればと思って、精進させていただいている。
兎にも角にも、我々の稽古では、一刀の一が玄関。
入り口であり、出口。
初歩の一手であり、極意。

武は自力本願の側面がある。
しかし技が掛かるのは、こちらの誘い通りに、相手が正確に打ってくれるからでもある。
ここをみれば、他力本願。
何も自分一人が、努力しているのではない。
多くの方々に、助けていただいている。
面倒見のよい、妻のお陰が大きい。
ここに一刀即万燈に通じる道が、あるように思う。
多謝。

今年のチュウリップは、白色でおしまい。また来年まで、待ちましょう。そう思うと、白さが哀しげに感じる。

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玄関 2 日本古武道大会 [古武道:無限神刀流居合術・会津小野派一刀流剣術]

浅草第25回 日本古武道大会 は、盛大にとりおこなわれました。報告と感想などを、試みます。

 まず、なぜ浅草なのか?そんな疑問を持ちませんか?浅草寺(せんそうじ)の関係かな?いえ、違います!
 海外移住して、大変苦労された方々があります。そうした方々が日本に一時帰国した際、「ぜひ、日本の武道を見たい!」と、申し出があったそうです。そこで当時の日本古武道振興会で、会場に万国旗を飾って、古武道大会を行ったのが最初だそうです。事務局長の久保田敏弘先生(天神真楊流柔術)が、「当時が、大変懐かしく思い出されます」とスピーチされました。

 浅草の大会では、各流派から選ばれたの代表者が、約一時間、流儀解説と実演があります。これが浅草の大会の最大の特徴です。今回は金硬流唐手でした。薩摩藩の弾圧に隠れ、さらに先の大戦を乗り越えて伝えられてきた歴史。動きが「真・行・草」でどう違うかを、実演されました。同じ型がいかに別の動きになるかを、見せてくださったのです。これには感心するばかり、「三段の習い」、自分たちの稽古と同じなので大変参考になりました。

 さて我々の出番は、プログラムで6番目。与えられたのは10分です。私は居合を、Nさん・Iさんは剣術・合気柔術。私は二人のほうは一瞥もせずに、淡々と自分のやるべき型を流します。ただ音だけは聞こえてきます。バシッ!バシッ!と二人の打ち合う木刀の音。私は「いい音だし、間隔もいいな」などと思いながら、自分の型を流します。
 思えば二人も、良くこれまでやったな。稽古してきたことが形になって、人様に表現し、意を伝えるまでになったということ。多少のしくじりはどうでも良いこと。深めるのはこれから、お互い様。

 帰りの電車は、Iさんと一緒。彼が本を取り出したので、「何を読んでるの?」と私。見れば「禅的生活」と、題名。彼もね、なるほどな。

 稽古は、この与えられた場と時間内での、コミュニーケーション。それ以上でもそれ以下でもない。ただそれだけ。省いて一になる。錬って一になることを、伝えるだけ。説教なし。
 だけど、それが型から技、技から道、一点の素心に繋がっていゆくことが大切。

 Iさん、「これいいですよ!いいですよ!」と、本を手にとって笑っている。彼もうちへ来た時は、いろいろ手を出すほうだったが、落ち着いてきたな。動きが変わり、身体が変わり、心が変わる。水が方円(ほうえん・四角や丸の)の器にしたがって変化するごとくに、心が練れてゆく。彼もね、なるほどな。
 
 「禅的生活」とあるならば、玄関の話、あったかな?「看脚下」(かんきゃっか)・「脚下照顧」などの言葉とともに。字のとおりに読めば、「足元を見て顧みなさい」となります。表面的には「靴を揃え、足が汚れていないか確認しなさい」ということです。しかしそれだけのことではありません。
 足とは自分の身体を支えている場所。足を顧みることは、自己を支えている価値の根本は何か?問いかけて掴みなさい。そう言っているのです。武道をやっている我々の答えは、「一」でしかない。
 だから玄関は、玄妙な世界へは入る関門なのです。入る時も、出る時も。

 写真は今朝の我が家の玄関

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玄関 玄妙な道に [古武道:無限神刀流居合術・会津小野派一刀流剣術]

写真は我が家の玄関です。

妻がこうして、季節の花を飾ってくれています。(3月の庭の様子はこちらhttp://aiki.jp/ishikawa/saijiki-13.htm

玄関という言葉は、元来は仏教用語で、「玄妙な道に進む関門」とか「仏門の入り口」を意味したものだそうです。私たちにとっては、家の入り口に過ぎないものです。しかし仕事へ出る時、仕事から帰った時の第一印象ですから、大切なことに変わりありません。

「きれいに飾ったね!写真に撮っておくね!」とパチリ。それがこの写真です。

明日は、台東リーバーサイドスポーツセンターでの古武道大会。若い人を連れて、行ってきます。彼らの勉強のためにも、こうした場に出て行くことも必要なので。
私は普段のとおり、淡々と終わらせるだけです。時にそれが、難しさでもあります。家の玄関を出るときの気持ちが、大切かもしれません。

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ネットでリセット 3 第2の理由(欲望・疲労) [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 現代人が生命に対するリアル感を喪失している第2の理由、考えてみました。この話題に関係なく、根源的な問題かもしれません。そもそも大人は、スイッチをリセットすると破壊された自然が回復するとでも思っているのではないか?

第2の理由。現代人は、自然から与えられたものをはるかに超えた人工環境で、消費生活に幸福感を持っている。欲望は際限なく広がり、大半の人が妄想に浸っていることにさえ気づかない現状がある。例えば二酸化炭素排出による自然破壊で、地球環境が待ったなしの状態であることは、さまざまな統計や予想で数値的には知っている。氷河もツンドラの森林もサンゴ礁も、消失するというのです。ではどれだけの大人が、生活の中で行動を起こせているだろうか?地球環境もどこかでリセットできるような、あるいは思考を先送りしているようなことはないだろうか。

 稽古が始まる前、私は道場の神棚に祈る。「先祖代々、ありがとうございます」。ただそれだけだ。願い事はしない。先祖代々から与えられたもの、それを使い切って生きるだけであって、それ以上のことを願う必要はない。ではもし仮に、与えられた以上のものを求めると人間はどんな悪循環に陥るか、農業を例に考えてみよう。

 仮に私が農業に従事し、光・風・水・土と自然に与えられた身の丈以上の生産性を求めるとすると、温室を作ったり、大規模に機械化した耕作をする。こうすると、たしかに付加価値をつけたり、生産性は上がる。単位面積あたりの売り上げは向上するだろう。しかし収益はどうか?設備投資に対する金利払いや燃料費が、売り上げに正比例して増える。売り上げ増加に反比例して、収益性は下がるのである。だから自然から与えられた力以上に生産性をあげればあげるほど、労働は増える一方で、利益の増加率は低減してゆく。
 そしてさらに大きな問題が起きる。金利払いや燃料費は、金銭で埋め合わせることができる。ここで何か忘れていることに気づくはずだ。疲れ果てた自分と家族の心身。これは金銭では、埋め合わせることはできないのである。

 こうした身の丈以上を求めることの悪循環は、さまざまな業種に、生活上の人間関係に当てはまると思う。子供が生命に対してリアル感覚を持たない、さらに問題なこと。それは大人世界が欲望の悪循環に陥ってることにさえ気づかない、すなわち妄想状態であることだと思う。

庭のチューリップの葉の上に、露が溜まった。生命の美しさ・弱さを思わせる。

この話題はこれで、終わりにします。

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ネットでリセット 2 個人的意見(リアルとバーチャル) [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 柳生さんは第1の理由として、リアルな死から現代人が遠ざかった生活をしている、という。まずこれについて、個人的意見と体験を述べたい。

「個人的意見」
 柳生さんは、9・11とネズミの比較をされている。これは不適切な例えで、どこかで修正なさるべきだと思う。9・11は作り手の意志の介在が少ない、リアルタイムに進行した映像です。被害者の数も多いのに、それをネズミと比較してしまうのは、誇張が過ぎるし不道徳でもあると思う。

 ここで大切なのは、柳生さんがリアルとバーチャルの落差を伝えたかった、として理解することだと思う。

 ニューヨークテロ、二千余りの方々が犠牲になる映像はバーチャル。掌の上でだんだん弱って息を引き取るネズミはリアル。リアルのネズミの死の方が哀しみ深いと、柳生さんは仰せになる。自分とリアルな因果関係が深いと、たとえネズミであっても立ち直れないほどの痛打を受けると言っているのだ。では私の生活の身近に、どんなリアルとバーチャルの落差がみられるか、考えてみよう。

 例えば、Aがリアルな体験と想いを、100枚分電子メールでBに送ったとする。キーボードを叩く行為は手書きと比べて、勢い感情が前へ走りやすい。Aにとってはリアルな体験が、電話線(あるいはファイバー)を通って活字として表現される。Bへ届いたときには、趣旨不明なバーチャルなものに過ぎなくなっている。
 ところがCはリアルな体験と想いを、3枚分便箋に自筆で書いてBに送ったとする。 Aにとってはリアルな体験が、郵便局員の何人もの手を経てポストに届く。それを自分で歩いて取りに行き、鋏で封を切る。文字には自筆の文字の持つ呼吸と躍動がある。Bへ届いたときには、リアルなCの想いが伝わってゆく。

 ネットを使うべき時と使わないべきでない時の見極めは、大切であると思う。

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ネットでリセット [AIKIDO TECHNIQUES 合気道 技]

 俳優の柳生博さんが、4月9日NHKラジオ放送で話されていた。一部分しか聞くことはできなかったが、印象に残った部分を紹介する。
「最近、スイッチをリセットすると死んだ人間が生き返ると信じている子供が、増えている。これは現代生活が、リアルな死から遠ざかっているためではないだろうか?現実に私もテレビニュースで、9・11のニュウーヨークテロの報道を見て、哀しみを感じたかと言うとそれほどでもないような気がする。私が子供の頃かっていたネズミが、自分の掌の中で息を引き取ったときのほうが、はるかに辛かった。ネズミと一緒に自分も死にたいと、思ったのだった」。

 全体の一部分に過ぎないが、そんな話が冒頭にあったような気がする。(月曜日で、千葉市武道館へ向かう自動車運転のほんの数分のことだったので、記憶は定かではない)。
 私が興味を持ったのは前半の「リセットすると死んだ人間が生き返ると信じている」部分で、私が社会の事象を見ても、納得のいく話であった。以前では考えられないようなことが今日、さまざま起きている。

例1)自殺願望をもつ人たちが、ネットで連絡を取り合う。そして初対面の人たちが集合する。そのまま「死にましょう」と実行してしまうことが、各地で起きている。

例2)リアルな場面で人間関係が壊れてしまったとする。それをメールでリセットしようとする。真意が伝わらないやり取りで、針小棒大・本末転倒なやり取りが増幅され、子供から大人まで殺人事件が起きている。

 柳生さんは、「現代人の生活が、リアルな死から遠ざかっているためである」と、既に述べている。これはもっともなことで、多くの人によって語られている部分でもある。こうした問題は私の仕事、身体活動を通したコミュニケーションをしている者にとって、切実に感じる問題でもある。「生身の」・「一期一会で」のありかたで、一回一回の稽古での伝達だけがすべてであると思う、いや理想とするだけに、切実に感じる。ネット、それは自分の仕事の対極。それでいて自分も使い、周囲の人もこれでアプローチしてくる。
 そこで私は、第2の理由と第3の理由などを、考えることにした。

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桜花(おうか)は謳歌?3 [素心]

桜花は謳歌しましたか?
イエスかノーで、答えて下さい。
なんて、おかしい質問です。
謳歌することの定義が、設定されていませんから。

では、納豆・鷹山・尊徳・敷島の歌、これらすべての共通点は何か?としたら答えられるかなぁ?
答は写真の下へ。



答:データ捏造・歪曲です。

納豆とは、あるある大辞典のデータ捏造の話題です。

納豆は中国から漢字を輸入した際、翻訳者が豆腐と漢字を入れ換えてしまいました。本来は、ナットウと呼ばれるものは豆腐と表記され、大豆を発酵させたものという意味です。トウフと呼ばれるものは納豆と表記し、大豆を絞って箱に納めたものという意味です。漢字の誤用が一般化した代表の一つ。
ナットウは豆を発酵させたものですから、豆の消化吸収が良く、低インシュリンで膵臓の負担を軽くします。科学的にみても、大変優れた食品です。 ところが関西テレビのデータ捏造で、評価失墜。スーパーでは在庫の山だったそうです。本質をみられないのは、番組提供側も国民も、同等です。

さて上杉鷹山・二宮尊徳・宣長の敷島の歌、これらもデータ捏造・歪曲です。これらは先の大戦前・中に、富国強兵のために歪曲した解釈が利用されました。実像は素晴らしいのに、当時のイメージの悪さから、今だ正しい理解が普及していません。



敷島の歌は、ソメイヨシノではない山桜を歌ったものです。山桜はパラパラと枝に咲き、パラパラと散ります。散華(さんげ)などと特攻隊の理想とは、ほど遠い。それに比べソメイヨシノの散り際の豪壮さは、非人道的な戦闘に国民を駆り立てた戦前の超国家主義に利用されました。
本居宣長は「古事記伝」を完成させた三年後、遺言で遺産相続には一切ふれずに、葬儀の仕方と墓所の位置を細かな地図付きで指定したそうです。そこは伊勢湾を望む山室山、三重県松阪市西郊。そして厳選した山桜を植えるように、付け加えました。

さて最初の質問です。桜花は謳歌しましたか?謳歌を自分なりの捉え方で、自由に答えてください。
はい、私なりに答えてみましょう。

本居宣長は「桜花 うかきいろともみえなくに ちしほにそめる わがこころかな」とも歌っています。
桜の花びらの散るのを見つめてみました。光線には色がありませんが、桜の花びらを通ることで「うかきいろともみえなくに」。光線が美しく変色します。柔らかく音もなく散り続けます。聴覚・触覚・視覚、すべての感覚が敏感に働いて、桜を見ます。これを毎年春に繰り返すと、桜は日本人にとって、愛しく懐かしいものとして根付くのです。
日本人の心をたずねたならば、「朝日に匂う」・「うかきいろともみえなくに」山桜の美しさに感じ入り、「ちしほにそめる わがこころかな」。これこそ「もののあはれ」に通ずるのです。

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